すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

まさに、まさにと苦笑する

2015年11月24日 | 読書
 【2015読了】118冊目 ★★
 『行為の意味』(宮沢章二  ごま書房)


 「こころはだれにも見えない/けれど、こころづかいは見える」という印象的なフレーズが、あの震災後のTVで流れ続けた。その折に知った詩人であり、原詩の「行為の意味」を集会で話した記憶がある。たまたま詩集を見つけたら「青春前期のきみたちに」という旧題があり、ずいぶんと手遅れ(笑)と知った。


 全編を読み通し、気づくことがいくつかある。収められた多くは中学生対象の冊子に書かれた作品であり、大半が4連の構成をとっている。当然スペースの関係があろう。型としては「起承転結」というより「起承結」的なまとめ方である。なんとなく連想したのは坂村真民の詩。仏教色は薄いけれど、似ている。


 ある意味では、ソフトな「説教」と言っていいかもしれない。ところどころに、本当にいいフレーズがあり心に沁みる。言葉に対する目のつけどころ、センスがいいからこそ「詩人」なのだから、当然とは思う。しかし難解な現代詩を読むにつけ、こんな言葉を使う人こそ、本当に伝えることを大事にしていると感じる。


 目が 一定の方向を指す行為を
 <めざす>と いう
 心が 一定の方向を指す行為を
 <こころざす>と いう



 「黎明の季節」と名づけられた最終章は、それまでの中学生向けとは違い、童謡のような作品が並ぶ。資料をみると小学校教科書に採用されているらしい。こちらは、どこか金子みすずの作品を彷彿させる。共通するのは、小さき弱きモノへの眼差しである。なかでも「知らない子」「はるをつまんで」は傑作である。


 いやあ、それにしても老年前期の身には、「性能が良くても ポンコツであっても/自分という車は 自分でしか運転出来ない」と始まる「自分でわかっている」という詩は、殊更こたえる。結局自分は中学生から進歩していないのでは…と時々苦笑したりするが、まさに、まさに。最終連四行をそっくり引用する。


 一年が終わろうとする北風のなかで
 自分の車の調子は自分でわかっている
 要するに 生きて前進し続けるためには
 自分という車をまじめに運転するしかない