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「作文を問う」という意味

2015年11月19日 | 雑記帳
 三十数年前のI先生の文章を読んでいると、本当に考えさせられる。

 下記は、学校文集の創刊号の巻頭言の一部である。

 (略)書くということは、思念と思想の格闘であり、作品はもういいわけのきかないその人の思考の枠ということになり、ひとりあるきをはじめます。他のことばの働きに比して厳しい批判にさらされることになります。それを恐れていると、味もそっけもない、興味も関心もないものになってしまいます。
 ですから、子供が作文を問うということは、相当冒険ということになることがおわかりでしょう。(略)



 文字になって残ることが「批判にさらされる」点はいつも意識している。
 だから、へたなことは書かないようにと、仕事の場でも少し臆病(いや狡猾というべきか)になっている自分を感じるときも正直にある。

 そういう現状であることを自覚すれば、文章とはなんと形式的で、魅力のないものかと嘆くしかない。
 だからこそ「作文」という言葉は、ある面で「つくりもの」「虚栄」の代名詞の一つにもなっているのだろう。

 本当の「作文教育」とは何か。
 その点について考えざるをえない一節がここにある。

 「子供が作文を問う」

 この文は、ここだけ切り取るとちょっと変な感じだが、後に「学校文集として世に問う」という一節があり、そこと繋がっていると考えられる。

 つまり「子供が作文を問う」ということは、作文そのものが「問い」を内包していること。

 心で受け止めた事象について、考えに考え抜いた思考の跡を、適切な言葉の取捨選択によって仕上げていくこと。
 それは問いの形になっていなくとも、内容であれ、使用語彙であれ、常に「どうだ」という提起をしていることにほかならないと考えていいだろう。


 翻って、毎日「作文」している自分。しかし「問う」てはいない。

 そのマンネリ感が問われている。