すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

就学児童,2月限定ネタ

2014年02月18日 | 教育ノート
 今日は4月に入学する児童の一日入学。年に一、二度、この年齢の子を相手に話すことがある。原則は一年生とそう変わらないと思うが、やはり「モノ」の準備が一番と考えてきた。あとは全員に視線を行き渡らせること。もちろん短くまとめること、少し動きや声出しさせること…今までのふりかえりを書いてみる。


 定番は大きめのカレンダー使用。始めは見せないで「今年は何年か知っている」と訊く。必ず知っている子がいるので、そこでカレンダーを登場させ、「今日は何日か」と再び問う。今日に○をつけ、ではと言って3月のところをめくる。3日桃の節句と、下旬に予定されている卒園式の日を事前に聞いて模様をつけておく。


 雛祭りのこと、卒園式のことにちょっと触れて、「これをめくると何月かな」と聞いて、次をめくると、入学式の予定日が派手にマーキングされている。「この日、みんながこの学校に入る日ですねえ」とにこやかに言い、「何月何日か言えるかな?」そして「みんなで元気な声で言ってみよう」と締めくくる。


 実は、今日はモノを使わずこんなふうに組み立てた。「みんな、テストって知っているかな?」…「学校に入るためにはテストを受けて、合格しなければいけません」…「今日はみんなにテストを受けてもらいます」…ここで少し不安そうにする子もいるが、「このテストはとても難しく……ありません」で和らぐ。


 「先生が名前を呼ぶから、元気よく手を挙げて返事ができるかどうかのテストです」一度全員で練習してから、一人一人の氏名を呼び返事をしたら「合格!」と受けてやる。ほっとしている笑顔がかわいい。「お休みした子の分もみんなで返事してね」「合格したよと伝えてね」と付け加え、「待っています」で締める。

全然平気,でないこと

2014年02月17日 | 雑記帳
 以前からよく話題になっている行為や言語ではあるが、改めて自分が直接目にし耳にして、やはりちょっと驚いてしまったことを書く。ところで、驚くという感覚は、今までなかったこととの出会いとも言えるので、その出会いによって自分の知識や思考は鍛えられる。しかし、それがなんだという気もしてくる。



 先週泊まった大阪で宿近くの「串カツ」の店に入った。満員ではないが、人通りが多いのでそこそこ人はいた。しかしいくつか串モノを注文して腹を満たしているうちに、段々と客が少なくなる。代わりの客も入らない。この時間帯なのになぜか…。会計の時に気づく。「ありがとうございました」が聞こえてこない。


 秋田へ帰る飛行機の隣席は若い女性だった。シートベルト着用サインが消え、その女性が手元のバッグから取り出したのは、A5版程度の鏡だった。それからバッグを探って化粧用の道具を出す。おいおい、小型旅客機のシート幅を考えると、結構かぶりつき状態で見る化粧ライブのようなものだ。今でなきゃ駄目か。


 とあるラジオ番組で、二人の女性が店の場所を説明している。「分からなければ、今だとグーグルマップもあるからね」「そう、全然あるね」…「全然+肯定表現」への違和感が最高潮に達する。もともとあった表現だとはいうが,やはり基本は「全然~~ない」の否定だったはず。その意味のとり方からの派生でしょ。


 「全然心配ない」の意味から「全然大丈夫」「全然平気」というふうに移るのであれば、俗語としては認められる。しかし「グーグルマップが全然ある」とは何を意味しているのか。グーグルが万能とでも言いたいのか。感謝がない、礼儀や恥じらいもない若者たちよ!と愚痴ったら,全然あるっすよと言われそうだ。

いつも「隗より始めよ」

2014年02月16日 | 読書
 「2014読了」22冊目 ★★★

 『邪悪なものの鎮め方』(内田樹 文春文庫)


 学校の朝の読書を取り上げて書いた「『読字』の時間の必要」という章が興味深かった。

 私も寝床,トイレ,風呂場等々どこへでも本や雑誌を持ち込む中程度の活字中毒を自覚しているが、著者は電車内で中吊り広告を熟視する自分をこう評している。


 これは誰が見ても「読書」ではない。私はおそらく「字を読む」ことそれ自体をはげしく欲望しているのである。


 以前から著者が書いているように,文字を図像として脳に入力しておくことが、「いつか幸福な読書を経験する」ためには不可欠なのだろう。

 読字自体が幸福な経験を呼び込むとすれば,こんなに嬉しいことはないが,そんなに単純ではないとも思う。

 読み取れる読み取れないを別にしても,その文字に浸ったり,寄り添ったりしている自分を意識して言語化する,つまりそれは何かしらの表現行為となるわけだが,その点が肝心になってくるのではないか。

 行為に結びつく本や文章に出会えるのは幸せなことだ。
 私にとって,内田教授の文章はそういう感覚を持たせてくれる一つであることは間違いない。


 さて,表題にある「邪悪なもの」といったとき,それは自己の内部にある感覚といった方が近いなあと,正直思う。

 もちろん,他者の言動にそれを感ずるときもあるにはあるが,他者を自分の変容態としてみるウチダ理論を学べば,全ては内なる感覚へ集結させられる。

 個々レベルではなく,集団や社会状況,そしてそれ以上の遠大な設定においても,邪悪なるものは存在するのだろう。
 その存在はきっと身の周りのどこかに姿を見せている。それを意識できるかどうか。
 「隗より始めよ」の教えは,そこに通じている。(ここで,どうして電力料金がこんなに高いのだと独り言を言ってみる)


 さて,内田教授は,その邪悪なものを鎮め生き延びるための答えを「はじめに」でそうそう提示してみせる。


 「ディセンシ―」(礼儀正しさ)と「身体感度の高さ」と「オープンマインド」


 どうだろう、自己採点は?

 三つとも及第点に達していない気がする。

 特に冬場は「身体感度」が…と言って腰をさすっているだけでは始まらない。

癒される人,餓えた人

2014年02月15日 | 読書
 「2014読了」20冊目 ★★

 『隠蔽捜査3.5  初陣』(今野敏  新潮文庫)

 文庫本の今野敏シリーズ4作目。準主役とも言うべき伊丹をメインにした「スピン・オフ短編集」だ。かの「踊る大捜査線」や「相棒」でも映像でそうした形でヒットしている。いわゆる派生モノ?だろうが,ある意味では視点の変換だから,味わい深く感じることもある。伊丹の弱さや狡さ,人間臭さに癒される。


 このシリーズに戸高善信という巡査部長が登場する。なかなか魅力ある役柄だ。いかにも現場のたたき上げで,足と勘を大事にする昔ながらのパターン。いつかこの人もぜひ取り上げてほしいものだ。「ちょっと引っかかる」という感覚が職人肌に見えるし,多くの「仕事」が持つ醍醐味とは,その発見にあったりする。


 秋田県では直接視聴できないTBS系で,このシリーズがドラマ化されている。竜崎が杉本哲太で,伊丹が古田新太では少しイメージが違う。「あまちゃん」人気もあるかもしれないが,はっきり言えば二人とも犯罪顔だし…。ここは重鎮ならば中井貴一,佐藤浩市あたりか。それは我慢するから早く放送してほしい。



 「2014読了」21冊目 ★★

 『たとえば君 四十年の恋歌』(河野裕子・永田和宏 文春文庫)

 以前2年ほど続けて「NHK短歌」という番組を視聴していた。選者の一人として登場していた河野裕子は,数名いるなかでも解説に説得力があるなあと感じていた。時期から言うと,河野が乳癌を治癒し,まだ再発していない頃である。あの語り口とともに,覚えている歌があり,そのことを3年前に書いていた


 河野と永田の物語は,雑誌で連載していたから,ある程度わかっていたが,今それをまとまって読むと,人と人が交わり合う,刺激し合うことの複雑な模様に圧倒される。正直解せない歌も多い。ただ,この短歌形式があったからこそ,表出とは次元の異なる「表現」を餓えたように求めた迫力が出てくると悟った。

ノートづくりは脳づくり

2014年02月14日 | 読書
 「2014読了」19冊目 ★★★

 『学力のつくノート指導のコツ』(佐藤正寿  学陽書房)

 
 44項目、すべてに1ページ分のイラストがあり、実に見やすく編集されている。

 全部を読み切り、「ノートづくりとは、脳づくりだな」と洒落のようなことを考えた。

 つまり、ノートとは、頭の中の受容や思考を、文字を使って外言化、記号・図などを使って構造化しているわけである。

 従って、ノートの整理されている子は、頭も整理されている(確率が高い)。

 ノート指導として取り上げている一つ一つが、学力に直結している。
 「そのまま写す」から始まる基礎技術は、学習の道筋に合っているし、そのステップも漏れがないように思う。

 私自身はメモやノートづくりが大の苦手で、担任時代にノート指導を意識したことはほんとにわずかだった。
 その意味で「アイデアいろいろ」の定規コピー、地図貼り付けやノートへの名前つけなど取り組んだことがなかった実践は、ひどく新鮮だった。


 そんな自分を棚上げして、批評してみれば、おそらく著者のように徹底するためには、斜度が高いポイントとして「一度に二つのことをする」「ノートをとらない子への指導」が挙げられるかなと推測する。

 積み重ねが求められると同時に、柔軟な対応が必要な技術である。
 ノート指導という範疇の中にとどまらない。学級づくりや他の様々な要素に支えられる項目である。

 最終項目「参観日にはノート展示会を」…ここまでたどり着ければ一級と言えるだろう。
 ノートの開示は、育てた脳の開示であるので、一定の自信と強い姿勢がなければできないからである。

ICTの要はCにある

2014年02月13日 | 読書
 「2014読了」18冊目 ★★★

 『授業名人が語るICT活用』(愛される学校づくり研究会 プラネクサス)


 一昨年のフォーラムの記録をまとめた書籍である。なぜか今まで見逃していたようで、さっそく京都大会の受付で購入し、帰路で読み進めた。

 プロローグで玉置崇先生は「永遠に語り継がれるフォーラムになりました」と書かれてある。掛け値なしに私もそう思う。

 それは一言で言えば、名だたる授業名人が、提案されたICT活用授業を批評することによって、授業の本質を見事に語った場であったと振り返ることができる。

 その場に立ち会えたことは非常に幸せなことだった。
 今、改めて、活字になった名人の言葉に触れて、深く頷いたことや笑いがでるほど納得したことなどよみがえってくるようだ。

 いくつか引用してみる。


 あのように教師が図形を動かしてしまうのは、子どもの言葉で授業をつくることになりませんよ(志水廣先生)


 「あら、おもしろい。でも先生は教えてくれない。何だろう」ということから、子どもたちが「学びたい。調べたい。追究したい」ということに転化するのが授業です。(有田和正先生)


 想像というのは隠すことに意味があります。見せすぎると、想像力をやせさせることになる(野口芳宏先生)


 こうした珠玉の言葉に、生で出会え、また文字で出会えることは幸せなことだ。今後の授業づくりのための糧になるだろう。

 この書籍が素晴らしいのは、そうした名人の語りだけではない。

 このフォーラムの発端や、開催に至るまでの経過、そして当日をはさんで集約と後日談等々、しっかりと整理されていることが一つある。

 そして、全編を通して、執筆している(また関わりあった)方々が、自分の言葉として咀嚼して書いていることに、深く広い学びが見てとれる。それが単なる研究会記録とは一線を画している。

 野口芳宏先生の著名な言葉として、「経験は意図的に積み重ね,そこに整理を加えなければ,真の力にはならない」がある。
 それを具現化した書籍と言っていいだろう。


 授業とはコミュニケーションの一種である。
 そう考えると、ICT活用の中心は、あくまでCであり、IもTもそれに従属しているだけなのである。

「楽しく」は「成長」である

2014年02月12日 | 雑記帳
 愛される学校づくりフォーラムin京都 
 感想記② 

 「3シーン授業検討法」と「ICT活用授業検討法」では,ビデオ画像が使われた。かつて授業づくりネットワークが提起したストップモーション方式が思い出される。継続して取り組み,結局「時間の壁」が大きく立ち塞がったことを鑑みると,今回の提案のコンパクト性は魅力だし,より焦点化が可能だと評価できる。


 「3+1授業検討法」は,数の明示を別にすれば,目新しいとは言えないかもしれない。私自身10年前に校内授業研究として「グループ討議→カード利用・発表」を提案したし,現校でも付箋活用,グループ討議を入れている。従って,会のねらい,テーマ設定がこの検討法をより有効化させるための手立てと言える。


 私の10年前の提案目的は「参加者全員が全力を出しきる」だった。これには,それまでの授業研究協議会等への不満があった。形態の工夫や協議の観点明示を入れたが,一年きりに終わった。考えれば肩に力が入りすぎたのかもしれない。その意味でフォーラムが提唱した「楽しく」は「成長」であり,共感できた。


 検討法の有効性を感じながら,司会者の重要性について考えた人は少なくないだろう。いくら授業の検討場面を焦点化させ,多くの人が発言したとしても,それでは五割止まり。それを価値づけ,方向づける役割は大きい。検討法の継続は司会者養成に結びつくが,それには意図的計画的な推進が求められるはずだ。


 検討会の材料となった三名の方の模擬授業。一流の方々であり,見どころも多く,微細な技術についても感心させられた。特に理科オンチの自分には野木坂先生の授業は,実に興味深く感じた。その指示や発問のなかに,今後の授業構築の際の貴重なキーワードを再確認できたことも大収穫だ。内容は企業秘密(笑)

そもそも論,網,意気込み

2014年02月11日 | 雑記帳
 愛される学校づくりフォーラムin京都 
 感想記① 


 午前の部「劇で語る!校務の情報化」は楽しく観た。多くの教員がレベルの差はあれ直面している課題だし,劇化はそれをより身近に感じさせるいい手法だと思う。劇団員の演技動作に関しては重きを置かず?PCを駆使して,イメージや説明を補う点が工夫されていた。それはお笑いの手法にも類似していると感じた。


 地域環境や学校規模のことが頭に浮かび,提案項目の実効性には差を感ずるものがあった。さらに今までも環境整備を訴えてきたが,あまりに高いハードルに少し萎えている気分もある。しかしここは根本に返って,提案骨子「校務の情報化は何のためにやるのか」という点をきちんと見つめてみようと思い直した。



 教育効果を上げるために仕事の効率化を図ろうとデジタルを使う。しかし,落とし穴に十分気を払う必要がある。今年度,文書作成に関して「昨年度文書→赤ペン修正→提案文書」というステップを踏んだ。それは素通りの踏襲を避けたいためだ。その危険性は今回の提案に関しても当てはまる。「網」は欠かせない。



 校務の情報化の本質を見失わないためには,身を任せる姿勢ではなく自ら使ってやろうという意気込みが欲しい。玉置先生の「科学の進歩はやだねえ。昔だったらこんなことやらなかったのにねえ」という本音?には深く頷くが,ある面一つの戦いとすれば立ち止まれない。鉄砲集団と騎馬戦では根本から戦術が違う。



 午後の部「楽しく授業研究しよう」。授業研究が自分にとってかなり大きい部分を占めていることを確認できた会だった。検討会の方法についてもずいぶん悩んできたから事前の関心は高かった。今回の検討法の提案は具体的であるがゆえに,その細部だけでなく,そもそも論として考えさせられることも多かった。

「無理な外出」を止めるのは無理

2014年02月10日 | 雑記帳
 太平洋側の雪が大変ということで、テレビに盛んに注意を促していたがその中に「無理な外出は控えるように」という言葉があった「んっ」と思った。「無理な外出」…ちょっと引っかかる。「外出は無理」だったら自然だけれども、それとは違う。「無理」の意味を改めて調べた。ははあっ、結構広がりがある言葉だ。



 ①道理のないこと、理由のたたないこと②強いて行うこと③行いにくいことするのが困難なこと(広辞苑)。「無理な外出」とは②に該当することだろう。「理由のない外出」や「するのが困難な外出」だったら、「控える」という動詞とはそぐわない。それでは「強いて行う外出」とは、控えられる類の行動を指すのか。



 「強いる」とはそもそもは相手に対しての強制なのだが、この場合は様々な事情や危険性はあるがどうしても行動しなければならないというニュアンスがある。今回は「大雪」がその障害にあたるわけで、それがあるからこそ「強いて」が使われるのである。「控えて」という方が、困難を除去してくれるわけではない。



 決死の覚悟でエイリアンとの対決へ向かう男を、必死で止めようとする恋人のイメージ。しかし行かなければ地球は滅ぶ、未来はない…ってどこまで大袈裟なのか。レベルの差はあれ「無理な外出」とはそういうことだ。それを安易に「控えて」なんて一言で済まそうというのが「無理なお願い」と言うべきだろう。



 豪雪か4年も続くと遠くへ出かけるのは勇気がいる。先月も上京を飛行機欠航で断念した。今回の「愛される学校づくりフォーラムin京都」もその意味では「無理な外出」だったかもしれない。トラブルもあったが順調に帰れそうでほっとしているし、「無理」ゆえの収穫も多かった。明日から感想を記したい。

時代のカナリアの声は届くか

2014年02月09日 | 読書
 「2014読了」17冊目 ★★

 『本当は怖い小学一年生』(汐見稔幸  ポプラ新書)


 面白そうな題名だなとネット案内で見た時に感じた。
 近々入学説明会もあるし、ネタが拾えるかもしれないと不純?な思いで購読した。

 粗く言えば「小一プロブレム」の原因考察をもとにした、現在の学校教育、家庭教育の分析と批判である。
 そして、今後の教育のあり方について多様性を基盤とした方向転換を提言している。

 特に目新しいとは言えないが、さすが著名な教育学者、論理は通っているし、説得力も感じる。
 ただ、著書の志向する動きは今盛んに論じられている教委改革と照らし合わせてみたとき、どんなレベルにあるのだろう、改革は教育の幅が広がるほうへ果たして向かうのか…そんな思いにとらわれてしまった。


 さて「本当は怖い」とは、誰を対象として語りかけているのだろうか。

 教師、親はもちろん、日本社会の全てに向けているのかもしれない。

 その「怖さ」の自覚は、教師であれば多かれ少なかれ持ってはいるだろうが、「家庭・社会」と「学校」との変化のズレの中で、怖さを閉じ込めている部分があるのではないか。
 だから「怖い小学生をつくった日本の学校」と称される。

 「もっと怖い日本の母親たち」には、その「怖さ」の自覚はあまり期待できない。「かけがえのない」といった甘い形容の意味を取り違え、同化してしまったり、放任してしまったり…。

 社会のリーダーたちはどう見ているのか。著者は子どもたちを「時代のカナリア」と表わしたが、その鳴き声にどんなふうに届いているか。


 この状況は一軒一軒の家庭の問題であると同時に、社会全体の課題であるという認識をもっと強めるべきだと思う。

 かつて、学校は社会より一歩進んだ存在であったはずだ。
 今、そんなことを思う人は誰もいまい。
 学校は常に後方にあって、社会や家庭が行く先も見定めずに走っているような状況に振り回されている状況か。

 自分の姿はどうかと言えば、そんなに急に行けないんじゃないか、そちらの道はあぶないんじゃないか…何かの紐をあまり見えないように引っ張っている感じだ。


 著者の提唱するシステムに共感できることもあるし、また首を傾げる点もある。
 個人の中でもそうなのだから、それぞれが思う「善意」はなかなか折り合いがつかないだろう。

 ただ、決裂したり反発のみに終始したりせずに、耳も目も向けていきたいとは思う。