すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

笑いの原則,見つけたり

2014年02月08日 | 雑記帳
 年度末に退職なさる方へ記念品贈呈の簡単なセレモニーがあった。ほんの一言ずつ挨拶していく中で、ちょっとしたエピソードを入れて笑いを誘う方がいた。あらましは、先日人間ドッグに入り検査結果を見たら、様々な数値が悪化するなかで、一つだけ良化している項目があり、それが肺活量だったという話である。


 私も思わず声を出して笑ったが、ふとどうして面白く感じのだろうと振り返る気持ちが出てきた。もちろん、話の調子、表情もその一因なのだろう。しかしそこを省いて純粋に話の笑いどころはどこか探ってみたい。中年、老年の自慢ネタの一つは病歴だったりするが、その範疇にあれば全て該当するわけでもない。


 加齢に伴う血圧、コレステロール、肝機能等々の数値の悪化と、肺活量のデータ良化が対比されている。前者はいわゆる生活習慣病に直結する、一方後者はあまり関わりが強調されない対比も重なる。それが落差を大きくする。そして肺活量がいいことは、走ることを想起させ健康な身体の持ち主という姿も浮かぶ。


 (実際は別にして)健康体の人間が、実は内臓肥満を抱えているイメージが滑稽なのか。肺活量からの「ため息」連想もあるか。つまりは、アンバランス。なんだ、ごくありきたりの結論になった。が、待てよ。もしかしたら笑いの原則とはアンバランスではないか。唐突な結論が浮かぶ。表情、展開…当てはまる。


 そう考えると、笑いのつくり方も見えてくる。バランスのとれた流れに異分子を入れ込むこと。それは空間的である場合、時間的である場合、複合的である場合がある。ごく普通に習作として作れば、こういう文章を書いてきて突如、関根勤のように脈絡のない話題にふることだ。「あばら骨が痒いときがあります」

惚け予防の鉄板的方法

2014年02月07日 | 教育ノート
 先週末にようやく全校児童の冬休みの日記を読み切った。継続的な形で日記に取り組んでいる学級はないのだが、概ねの子が19日間を書いて提出した。数値化すれば達成率は95%程度と言っていいだろう。中身はどうあれ、実施率は、かなり上等ではないか。一人一人の書く文章を読み想像できることは結構多い。


 日数の半分も書けなかった子がわずかにいる。何が問題か。机に向かう習慣、書くことの抵抗、想起することの面倒くささ…。簡単に対策を示せる場合、そうでない場合がある。その見極めが肝要だ。この子がこれほど書くんだと思わせる文章もいくつかあった。表面的な部分しか見てこなかったことを反省させられる。


 内容と合わせて字の丁寧さに、学ぶ意欲が示されていると判断できる。決まりきったパターンを書き殴る調子の者は「気」が入っていないのは当然だが、長期休みでは、たまに読みどころのある文章を書く時もある。きっとその子の琴線に触れるポイントだ。見逃せない。できれば文章と結び付けたいが焦りは禁物だ。


 全校集会で「日記をつけると頭がよくなる」と題して話した。「思い出す力」と「考える力」が積み重ねられ、鍛えられる。それには「落ち着いて書く」「よく見て書く」「面白く書く」「くわしく書く」「伝わるように書く」ことがいいとし、例文を各学年の日記から紹介した。ちょっと笑えるぐらいがいい内容だ。


 今どき日記指導でもなかろうとは思う。しかし懐古的に取り上げたわけではない。文を綴る、特に生活を綴ることはやはり見方、考え方を養う鉄板的な方法の一つだ。実態を見て、今の子どもにマッチした工夫も取り入れられればいい。しかしまず、その前に自分も忘れず書く。惚け予防になるという力強い理論もある。

公案

2014年02月06日 | 雑記帳
 【公案】(こうあん)

 ①公文書の下書き。②禅宗で、参禅者に示して座禅工夫させる課題。③工夫。思案。(広辞苑)



 シリーズとして読み続けている「隠蔽捜査3」で、主人公が悩み解決のために書物を購入する。
 その中の一冊に「さまざまな公案」について書かれた本がある。

 小説のなかみに直接関わってくるのは、「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という公案。

 一人の雲水を20年にもわたって面倒をみていた老婆が、若い娘を使って抱きつかせ雲水を試そうとする。雲水は平然と何も感じないことを答えるが、老婆は烈火のごとく怒り、追い出し庵を焼いてしまった。

 この公案の価値に最初気づかない主人公竜崎伸也
 しばらく頭から離さずに、自分なりの解答を得た。

 読者である私はある程度予想がぽっと浮かび、なあんだ簡単ではないの、と軽口を言いそうになったが、ちょっと考えてみると、そういう決断を求める構えでは座禅にならないんだと気づく。

 案に集中し、問答をいくつ積み重ねられるかが肝心なのだ。

 早く解決をみようとする雲水のその心が、老婆を怒らせたとも解釈できる。


 公案とは、なかなか味わい深い。




 「2014読了」16冊目 ★★

 『疑心 隠蔽捜査3』(今野 敏 新潮文庫)


料峭

2014年02月05日 | 雑記帳
 料峭やかもめと瞼閉づるとき(堀本裕樹)

 「料峭」は「りょうしょう」と振り仮名がある。
 しかし、さっぱり意味がわからない。

 この言葉の意味を知っている人は、どれほどいるのだろう。
 俳句人口が何百万人とも聞くが、勝手な予想をするがこの字を読めて解することができる人は、日本人の1%はいないと思う。


 「授業とは、何かを用意し、何かをかくし、何かを問い、何かを考えさせ、何かを認識させるコミュニケーションである」という宇佐美寛先生の名言がある。
 その意味で、こういう句との出会いは一人授業のようなものである。


 最初の「読字」はクリアしたが、「解語」の段階は調査、検索が必要だ。


 【料峭】(りょうしょう)

 春風が肌にうすら寒く感じられるさま(広辞苑)



 ほおうっ。これで「読解」に進める。

 感動の中心は「料峭」。
 心寒い、寂寥感、いやもっと深い孤独のようなイメージがわく。

 「かもめと瞼閉づるとき」…話者の心情と広がる風景をどう解するか。

 「瞼閉づる」にどれだけの意味を見いだせるか。認識の深さが問われる。



 立春は過ぎたが、まだまだ春風にはほど遠い風雪の日。
 瞼を閉じながら情景を想像してみる。

貫く人を心に棲ませよ

2014年02月04日 | 読書
 「2014読了」13冊目 ★★★★

 『果断 隠蔽捜査2』(今野 敏  新潮文庫)


 現実はこんなに甘くはないだろうと思いつつ,そうありたいとかあってほしい願いにしばしの間浸らせてくれるのが,いいフィクションの条件だ。

 その意味で,公務員必見,管理職にある者必読! と誉めたい気がするエンタメ小説である。

 もっとも好みもあるだろうし,「結局,エリートキャリアの自己満足か」と一笑に付する人もいるだろう。

 竜崎伸也というキャリア警察官の一人称視点で描かれる「隠蔽捜査」シリーズ2作目。
 警察庁中軸で活躍した前回の展開も読みごたえがあったが,家族の不祥事で降格し,警視庁大森署の署長となった今回の方がより面白みがあった。

 警察機構という究極の縦社会の中に限らず,派閥や情実,慣例などに囚われないで,法に則り原則を貫くことがいかに困難であるかは,何かの職についた経験者であれば十分に理解できる。
 理解できるというレベルではなく,絡みついた様々な糸によって麻痺しているのかもしれない。

 それゆえ,組織からは「変人」視され,家族からは「唐変木」呼ばわりされる竜崎の一言一言は,けして麻痺していない人間の思考はこういうものだったと,改めて感じさせてくれる。

 引用したい格好のいい言葉は数々あるが,一つだけというなら解説子も挙げた,前作で語るこれか。

 俺は,いつも揺れ動いているよ。ただ,迷ったときに,原則を大切にしようと努力しているだけだ


 原則とは,「何のために」を常に問うことである。それに従って優先事項を配置することである。

 署長という立場で部下をどう動かし,常に上から降りかかる「体面」という圧力をどう撥ねかえすか,その論理と言語はまさしく武士の「刀」のようだ。
 本物の武士道など語るすべもないが,現代的な感覚で立ち上げてみせたキャラクターといってもよくないか。

 ちなみに,地域安全や学校教育について懇談会の場で「脇差し」で斬ってみせた場面も,職業柄興味深い。


 ここしばらく,まともなことを語ろうとするとき(笑),「我が内なる斎藤さん」と心で言っていたが(また笑),これからは「我が内なる竜崎伸也」としようかな,とかなりどうでもいいことを考えている。

コード

2014年02月03日 | 雑記帳
 【コード】(code)

 ①規定。準則②情報を表現する記号・符号の体系。また情報伝達の効率・信頼性・守秘性を向上させるために変換された情報の表現、また変換の法則(広辞苑)



 堀裕嗣さんの本を読んでいたら、「生徒のコードを捉える」という表現があった。
 冒頭の文章はこうだ。

 生徒を説得しなければならないというとき,まず留意しなければならないのは生徒の〈コード〉を捉えるということです。


 なんとなくわかるような気もするが、すとんと落ちる感じにはない。

 「コード」といえば、まず電線のようなもの…cordが思い浮かぶ。
 次には、chordつまり和音とか弦に関するものがポピュラーだ。

 「生徒のコード」といったとき、「流れ、過程」という意味での「ひも」というとらえ方もできる。
 また同じように「実態、背景」という意味で「和音」ととらえても変ではない。

 しかし、やっぱり上記のcodeだろうなと思う。


 それにしても、こういう使い方は一般的なのか。
 ネット検索で、「生徒指導  コード」を入れてみるが、全然ヒットしない。
 わずかに一点「生徒行動コード」という作成に関する事項があった。
 そこから考えて「行動コード」という言葉を調べると、社会学、心理学的な用語として使われているようだ。

 「行動基準」とか「行動規範」とはニュアンスが違うことは分かるが、どうにも今一つぴんとした解に出会えない。

 そうこうしているうちに、英訳サイトでこんな説明を見つけた。

 コード (code) とは、メッセージを特別な知識や情報無しでは意味が分からないように変換する秘匿手段の一つであり、暗号の一種である。

 あっ、「暗号」ね。
 「ダヴィンチコード」という映画もあったではないか。

 「行動暗号」…これならいい。

 「生徒のコードを捉える」にすっきりはまる。

 結構骨の折れる作業だし、多面的・複線的視点が欠かせないことは言うまでもない。





 「2014読了」14冊目 ★★

 『誰にも書ける一冊の本』(荻原 浩 光文社文庫)

 「2014読了」15冊目 ★★★

 『生徒指導10の原理 100の原則』(堀裕嗣  学事出版)



一瞬一瞬をつなぐ仕事

2014年02月02日 | 雑記帳
 録画していたドキュメント番組『みんなの学校』を見た。


 大阪市立南住吉大空小学校の教育活動を取り上げたものだった。
 1時間番組で伝えられることは限られるし,編集意図もあるだろうから,安易に感心したり批判したりはできない。

 しかし,発達障害と思われる子や問題傾向のある子を,他校から受け入れている現実をみるとき,それは相当の覚悟をもって経営されていることは想像できた。

 そして何より共感できた言葉がある。
 同級生に暴力をふるった子が校長に諭され,「もう絶対しない」と反省文を書いてくる。
 その文章をみながら,校長はこう語る。(こんなニュアンスのこと)


 「その子にとって,この一瞬は真実である。そういう一瞬,一瞬をどうつなげていくか,それが私たちの仕事である」

 ここには,子どもの可能性を信じる,固定観念を持たず明日も働きかけるという,教職にとってとても大事な原則があると思う。

 問題傾向は様々に区分される。反社会的,非社会的そして脱社会的…。
 対応にはそういう分類も必要であり,方法を多岐に考えられる基盤になるが,子どもに向かう姿勢は揺らいではならない。


 子どもの見方について,勤務校に野口芳宏先生をお招きしたとき直接尋ねた折の言葉を,時々思い出すように努めている。

 「子どもはみんな『よくなろう』と思っている」

 とことん信じ切れるか,それだけが唯一の視点である。

浅慮

2014年02月01日 | 雑記帳
 【浅慮】(せんりょ)

 思慮の浅いこと。浅はかな考え(広辞苑)



 意味は読みとれても、なかなか使わないし、あまりお目にかかれない言葉だ。

 字のごとく「慮りが浅い」。

 では、慮りの深さは何で測ればいいのか。蓄えた知識を駆使しながら、思慮に費やした時間か…。

 それにしても結局のところ、価値観や志向によって判断されることは致し方ないだろう。


 一つの仕事、例えば目の前の行事運営をイメージしてみる。
 その場合はやはり、ねらいに即して幅広い観点で検討してみることが、慮るということだ。

 効率的に右から左へひっかかりなしに済ませない。
 最低、慮る輪郭を示したい。

 ちなみに「浅はか」の「はか」とは、かさ、分量を指す。