すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

影響者の形,そして声

2014年06月20日 | 読書
 「2014読了」62冊目 ★★★

 『教師の作法 指導』(野口芳宏  さくら社)

 当然であるが、再読である。

 以前の感想メモも残していた。


 野口先生から、「沼澤さん、教師っていうのはね、影響者なんだよ」と話しかけられたのは、駅へお送りする車中であったと思う
 ずいぶん前のことで、すくなくともこの本を出される以前だったはずだ。

 今回改めて読みなおし、次の部分のレベルに目がいった。

 ◎標準伝達者
 ◎伝達巧者
 ◎影響者
 ◎教育者・感化者



 「影響者」で括れる一つとして「教育者・感化者」があるととらえていいだろう。

 「影響」という語を解説した先生の文章に背筋がのびる。

 「影は形に従い、響は声に応じる」の意。一つの原因が必ず密接な関係にある他に力を及ぼし、変化を起こさせること。その意味で言えば子どもは教師の影であり、子どもの成長は教師の呼び掛けに応じてきまる。


 子どもは良くも悪くも教師の影響下にあることを、通りいっぺんの意味ではなくて噛みしめたい。

 元気か、明るいか、誠実か、そんな言葉の問いかけで足りるようだ。

格好のいい旅に

2014年06月19日 | 教育ノート
 今日から修学旅行引率。
 
 昨日の5校時に結団式をした。
 結団式の挨拶に,定番にしているものがある。
 
 今年度も学校が変わったので,この話材でもいいかと話をした。

 自分の考えた挨拶の中では,結構気に入っている流れである。


 ☆

 「修学旅行」の「修」という字を書けますか? 一緒に指書きしましょう。

 この字を分けると「攸(ゆう)」と「彡(さん)」という字に分かれます。

 「攸」は、人偏がありますが人の背中に水をかけて洗うという意味です。
 「彡」は、清められた、きれいになったということです。

 「修」という字の意味は「おさめる」、学問や技、芸能などを身につけるという意味ですが、字の成り立ちから探っていくと「きよめる」「すらりとした形をととのえる」ということだとわかります。

 つまり、学問や様々な技能を身につけてすらりとした人柄、性格を身につけるということがもともとの意味です。すらりとしている、今の言葉に置き換えると、スマート、格好がよいといっていいかと思います。

 修学旅行を通じて、格好のいい姿、スマートな姿を見せてほしいと思います。
 それはおしゃれな服を着てくるとかそういうことではありません。
 行動や言葉が格好いいという意味です。

 担任の先生と一緒に計画立てたことには、それぞれにねらいや目的があります。
 それに向かってお互いに励まし合いながら進んでいく、全体で、グループで行動するべきときに無駄がない、そうした姿だと思います。

 先生も一緒にいって、カメラやビデオでいろいろと撮る予定ですが、みんなの笑顔とそして格好いい、スマートな姿をとれると嬉しいし、そのことを期待しています。

 ☆
 

ボツ原稿をひろう

2014年06月18日 | 教育ノート
 今年度も学校報を書いている。
 現在のところ12号、週1ペースを維持できている。
 その学校報「馬音」に「BAON COLUMN」というコーナーを作り、小文を書いている。

 字数限定としているが、雑感なのでわりと自由気ままに書かせてもらっている。
 今回はサッカーネタからかなあ、と思い書き出してみたが…。

 最後の行までたどり着いて、なんだかこれは何を書こうとしたのか曖昧だなとボツにした。
 ただ読み直すと、いい部分もあったりして…ちょっと残しておこう。
(結局、学校報には前半三分の一ほど使って、あとは子どもの学び方を中心に書いた)


 ☆
 日曜日のワールドカップの試合は、子どもたちも含めて多くの方がご覧になったことと思います。
 本田選手のゴールに声を上げ、そして逆転を許した場面ではため息がもれたことでしょう。
 前途は厳しいかもしれませんが、最後まであきらめずに戦う姿をぜひ見せてほしいものです。

 さて、サッカー競技はバレーボールなどと共に「つなぐスポーツ」の代表と言えるのではないでしょうか。
 短く長く、縦に横に斜めに、鋭く直線的に、ねらいすまして弧を描くように、様々なパスが作りだす動線が、一つのゴールを目指します。

 教室で行われる毎日の授業もそういう要素があるのではないでしょうか。
 子ども同士、また子どもと教師がパスをしあって、一つのゴール(目標)を目指しています。
 思いや考えをうまくつなぐことによって、だんだんとゴールが近づいてきます。
 一人一人のパスは多彩だし、その道筋が最短距離の場合は少なく、大きく回ったり、もどったりするときも多くあります。
 ただ意識は常にゴールを向いているはずです。
 教室でのゴールは、多くの子にパスがわたり、全員で攻撃ラインを上げながら進んでいくのが理想かなと、考えてみました。
 ☆

もろく崩れようとしている

2014年06月17日 | 雑記帳
 【誠実】(せいじつ)

 (他人や仕事に対して)まじめで真心がこもっていること。



 先週の授業研究会の折に,助言者の口から一つのキーワードとして出た言葉である。
 道徳や国語の教材内容に関わることではなくて,指導内容の一つとして示されたように聞き取った。

 その時はふうんそんなものかと思いつつ,ちょっと魚の小骨のように引っかかった。

 つまりは,そんなことをことさらに言わなければならない世の中になったということか。
 昔から誠実な人もそうでない人もいたはずなのに話題にならなかったのは「疑われない価値」として存在していたものだったからか。

 様々な波にさらされて,誠実はもろく崩れようとしているのだろうか。

 そんなふうに想像してみると,それに類する価値のいくつかはずいぶんと形を成していないように思う。


 辞書には存在するが,いつのまにか実態が消えかかっている言葉たち…。

 と,そこまで言うと大げさではあるが,「指導」を意識しなくとも大方「教育」されてきた精神は着実に減ってきているんだなあ,と今さらながらに想う。

Aを求めてBを見つける

2014年06月16日 | 読書
 「2014読了」61冊目 ★★

 『脳がヨロコブ生き方』(茂木健一郎 ヒカルランド)


 著者のブログ「クオリア日記」には以前アクセスしていた時期もあったが、ここしばらくはさっばりご無沙汰である。
 今アクセスしてみたら、更新もずいぶんとのんびりのようである。(もはや撤退したのかな)

 この著は茂木氏のブログを編集者がまとめたものだ。
 読み取りに知識を要する項目もあるが、いろいろな切り口があって楽しい。
 ページの端も数多く折った。

 その中でも、冒頭のこの言葉はうれしい。励まされる。

 毎日ブログを書くということは、人間の脳にとってどういう意味があるか、ひとつにはメタ認知ということがある。(中略)新たな気づきが生まれたり、新しい発想が生まれたりする。


 もちろん、それは書いているレベルによりけりであるが、百分の一でも実現していたら嬉しい。

 端を折ったページを読み返してみると、氏の哲学的な言辞に惹かれている自分が目立つ。

 いくつか拾い出してみよう。


 それぞれの人が、自分の愛することだけにかかわっていれば良いのではないか。Busybodyの生き方の稜線は、次第に崩れていく。


 日本人が今、自己のアイデンティティの危機に陥っているとすれば(私は陥っていると思うが)、自らの底に降りていって、深層から何か鉱脈を探り当てるしかないと考えている。
 適当にガス抜きしている場合ではないだろう。


 年を重ねるにつれて、様々な社会的文脈にからめとられていく。その文脈の中で、一所懸命仕事をする、というのも尊いことだが、たまには文脈の衣を脱いで、裸にならないと、精神のどこかが麻痺していく。




 まだまだあるのだが、実は今自分のなかで最も揺れ動いている考えのありかが明確になったような気がする一言がある。
 氏は以前「セレンディピティ」ということを強調した時期があったが、その当時の文章ではなかろうか。

 確立した自己に情報が入り、出ていく、といった近代的自我のモデルの下に問題を考えるのはやめたい。生物の世界が、性の問題を含めて、いかに自己というものを簡単に踏みにじって新しい自己を作っていくかということを反省してみるべきだろう。


 唐突のように授業のことを持ち出すが、Aという課題だけを見つめてAにいかに近づけるかのみを考えていく、昨今のあり方は疑問だ。
 そしてそれがことさらに強調され、それ以外に目が向かなくなった傾向に、深い危惧を覚える。

 「Aを求めていたらBを見つけてしまった」というセレンディピティの考え方が、もっと授業の中で展開されてもよくないか。

 むろん初等教育のねらう基礎基本の徹底は、主軸ではある。
 しかし、そこへ至る道は常に張りつめていては駄目で、もっと蛇行したり、もぐりこんだり、跳びあがったりしてこそ、より強固な軸になり得るだろう。

 縮こまった、薄っぺらな道づくりをしていないかと、自問してみる。

誤りから始まる新しい物語

2014年06月15日 | 雑記帳
 ある会議に出たとき、その資料の文章のなかに、明らかに打ち間違いまたは誤変換の見落としと思われる言葉に出会い、思わず妄想モードに入った。(会議からの逃亡か!)

 それにしても、そういうモノを見つけたときにクスッと笑えるのは、その単純な間違いから何かを想像させるからであり、新しい物語をつくる要素があるのだなあと、くだらない理由づけなどをしてみる。

 さて、その1

 重大辞退


 解釈「重大なことは辞退させていただきます、という宣言」

 もしくは「私が辞退したことによって、重大な問題を引き起こしてしまいました、という陳謝」



 その2

 短気目標


 解釈「本当に短い時間でも達成できる目標。短気な性格の人へのお薦め」

 もしくは「短気な人が失敗しても起こらないように設定された目標、というジャンル」



 その3

 巨漢的な人間関係の構築

 (おそらく「共感」でしょう)

 解釈「大きな身体をもつ人同士は、もっと仲よくなければいけません、という教え」

 もしくは「太っている人たちの放つフレンドリーなイメージを見習い、暑苦しくとも良好な人間関係を築いていこう、という呼びかけ」

揺らぎで生きる実感

2014年06月14日 | 雑記帳
 前週は3日間徒歩通勤ができたが,今週は月曜から金曜まで1日も出来なかった。昨日は出来たのかもしれないが,少し荷物が多くおっくうになった。校外に出ての会議が重なったし,外部から人を迎えるためのあれこれもあった。葬儀参列もあった。なんだかバタバタした週だったな,と久々の全日休日に想う。



 全国学力調査関係,国語研の研修会準備があり,どちらも順調に終了。学力関係では某新聞社から電話取材を受けた。五月にこちらに出向いて取材をした方から,その後の進捗について訊ねられたが,少し噛み合わない点もあり難しかった。その後は指導主事訪問,そして人権関係活動…やはり結構タイトだったな。


 そんななか,昨日は今年度初の授業実施。6年生2学級を同じ題材(五七五作文)で行う。導入や読み聞かせする教材を変えたりしてみたが,概ね予定通りだった。やはり授業は楽しい。五七五で答えさせる定番質問「好きなテレビ番組」を訊いて,わかったことがある。『世界の果てまでイッテQ』の人気の高さだ。


 視聴率が結構高いことは知っていた。どんな点が魅力なのか今度見てみようと思う。さて,片方の学級の導入で私に質問するように求めたところ「好きなお笑い芸人」を訊ねられ返答したのがこれ。「昔から内村さんのコント好き」。今思うと同じ内村光良で重なったことは偶然か。それともまだまだ自分も子供か。



 昨日は夕方からの会議挨拶もあったが,代理をお願いして劇団文化座の公演を観にいった。朗読劇『少年と白い馬』…あの「スーホの白い馬」である。約1時間半のステージは,佐々木愛の朗読とモンゴルからの楽団の音楽で構成されていた。佐々木の語りは少し年老いた印象だが,台詞まわしはさすがプロと感じた。


 それ以上に「バトオチルとモンゴル国立民族歌舞団アンサンブル」に圧倒された。馬頭琴はもちろん,その本質は「ゆらぎ」ではないかと直感した。特にボーカルが男女一人ずついて,その声の響きは今まで聴いたことのなかったものだ。揺らぎっぱなしの一週間ではあったが,揺らぐということは生の実感でもある。



学級通信「つばき」は語る~②

2014年06月13日 | 雑記帳
 未熟だった私はずいぶんと支えていただいたが、面と向かって誉められた記憶はない。

 それだけに、この「つばき」にあった文章は、今私にとっては最上級の嬉しさを感じさせてくれる。

 地区の書写展示会へ向けての習字の取組みである。
 堪能なF先生の指導に太刀打ちできるわけもない私は、当時何かの実践に感化されたのか、課題の「全員百枚練習」を打ち出した。

 F先生は書写学習を振り返って、子供たちの作品写真を載せながら、次のように書き残してくれていた。

 となりの組は全員百枚挑戦をやりとげたようですが、それだけにみんながすばらしく向上していたと思います。
 一組は、となりより少しおとったようですが、それは担任が忍耐強く要求しなかったことにもよると思います。



 F先生の教室前面に掲示された目標は「聞き上手になろう」「働き上手になろう」だったと記憶している。
 最上級生に示す文言としてはどうか、と単純に考えるが、実は子供の実態によく照らし合わせられたものだった。

 秋以降の通信「つばき」は、かなり不定期になっているが、それらの目標に対して少しずつ手ごたえを感じずつある印象がする。
 子供たちのノートのコピーや、今学習していることについての紹介などにもスペースが割かれてあった。

 そして1984.3.17。
 卒業の日の53号には「夢中のうちに終わった」「まずまずというところでしょう」という、心の内の思いを吐露しながら、このような文章でまとめがされている。

 (つばきの鉢について・・・・)鉢そのものは何の手入れにもせず冬になったので、玄関わきに入れていたのですが、赤いつぼみがちらほらみえるのでびっくりしました。
 いつもより、数は少ないようですが、ともかく連続花が咲くことになりました。
 子どもたちの成長を喜んで咲くことになったのか、お前がかわいそうだからといって咲くことになったのか、つばきに口があったら答えてくれればと思いました。



 ああ、F先生らしい締めくくりだなと思う。

 人間の生きる芯がしっかりしていれば、それはどこかに響いて、何かを咲かせていくのだよ、とあの穏やかな顔でおっしゃっている気がする。

 合掌。

学級通信「つばき」は語る~①

2014年06月12日 | 雑記帳
 若い頃に同学年を組んだF先生が亡くなられた。
 今思うと、生意気盛りの自分をよく見守っていただいたと思う。

 当時いただいた学級通信が綴ってある。
 変色し、読みとりにくい印字の部分もあるが、息づかいが伝わってくる文章だ。

 1983.4.5にその「つばき」の第1号が書かれている。

 「真の“出会い”を」と題された小文である。(すべて原文のまま)

 きのう子供たちと顔をあわせましたが、毎日が闘いだなと感じました。“子供は純真で、いつも教師の味方で、勉強づきで、などというとらえ方は、がんばってもできませんでした。指導を拒絶し、反逆し、いいかげんなことでは心を開いてくれない、近づいて来ないという印象が深められました。
 この出会いを、いかにしてきり開いていくかというのが担任の当面の課題であると感じました。



 学級を受け持って発行する通信第1号にこんな事をかける教師は、当時であっても少なかっただろう。
 いわば宣戦布告のようなものである。
 今思えば「学級崩壊」とまではいかなくとも、それに近い状態だったとも予想できる。

 他校に聞こえてくるほど、悪名高き子供たちが揃う学年であり、一年前に転任してきて隣の学級を受け持った私にしても、結構ぼろぼろになりながら、仕事を続けていた記憶がある。
 当時、40代だったF先生は上の学年を卒業させて、すぐまた6年生の片方の学級をもつことになったのだった。


 始業式から三日後の第3号に、F先生は通信名の「つばき」について、その思いを述べている。
 前任校在職時に、山道で見つけたその小さな木は1年おきにしか咲いてくれないのだった。5年生6年生と持ち上がるサイクルだったので、実はそれがよく合っていたのだという。今年は1年間しかないのだけれど…と続けてこう書いている。

 是非、来年の三月にも咲かせてみようと考えたのです。それは今の子供たちに、昨年から担任していたような気持ちで、その内容を充実させることだ。つばきの花が毎日見ているのだという、自分に対するいましめと、はげましのシンボルとしてつけたものです。


 教職にかける思いの深さを見るようである。

 当時はすぐには呑み込めなかったけれど、学級経営に関する指導の「強弱」調整や、研究授業に関する「教師用指導書」の生かし方(まあ、これは裏技のような、隠し技のような気もするが)など、その懐の深さは、私にとってずいぶんと刺激になった。


 それだけの力量をもったF先生にしても、かの学年、学級は一筋縄ではいかないツワモノ揃いであった。

 様々な手をうつが劇的な成長を感じさせるところまでは届かない。
 そのもどかしさやいら立ちも感じられる文章も少なくなかった。
 秋頃には「授業を受ける態度、すなわち心の成長がもっと早ければ…」や「腹の底からにえくりかえってくる」などという表現もみられる。

 しかしその半面で、学年で初めて取り組んだ2回の児童集会や、修学旅行の他に実施した二泊三日の宿泊学習など、今思ってもバイタリティに溢れたことを子供にぶつけていたことも確かだ。

 私たちは、そんなふうに残り半年に向かっていった。

「踊る教室」に踊らされるな

2014年06月11日 | 雑記帳
 NHK『学力日本一 踊る教室』…放送する側に立てば、なかなか練られたネーミングと思う。しかし、視聴した教員の一人として、しかも身近な地域のことが取り上げられた、という立場からは、あまり愉快な感じがしなかった。「学力日本一」が一人歩きしている状況は慣れているが、「踊る教室」の意図は何か。


 テレビとして「踊る」から連想できるのは、あれしかない。そう『踊る大捜査線』。従ってはじきだされるイメージは、勢いがあるというより騒然、ドタバタに近いのではないか。あのドラマ以降に「踊る」を使って形容されているものの多くはそうだ。視聴者が「踊る教室」に期待するのは、そんな様子ではないか。


 編集の意図は、番組紹介の詳細に書かれてあるとおりかもしれない。しかし、教員であれば、多くが経験するであろう事象(子どもたちがしゃべらなくなる、やる気のない態度を見せる)を、ああした場面だけを切り取って仕上げるのでは、教師の感情だけがクローズアップされるようで、誤解を招きかねないだろう。


 描かれた児童の変容をどうとらえるかは、様々であろう。一般視聴者と学校関係者とでは違いがあるかもしれない。またドキュメンタリーとしてどうか、という評価もあるはずだ。それらを重ね合わせ考えると、この番組設定には「事件」を期待していた向きがあり、それをことさらに脚色したという推測が成り立つ。


 特定教科の、ペーパーで計測する「学力」の平均値の高さを「学力日本一」とした大雑把な表現と、「踊る教室」と一学級を揶揄したような表現と対照させて、その落差をねらっていたのではないかと勘繰りたくなる。編集意図を考察せずに、場面的な批判をしている輩もいるが、そんな踊らされ方をしてはいけない。