すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「まずくはないラーメン」という自虐

2014年10月21日 | 雑記帳
 この店は2回目である。初めて訪れたときの印象はあまりないのだが、手近で済ませたいと思ったので、「まあいいか」という気持ちで家人と一緒に入る。私の場合、特定のねらいがない限り注文は「味噌ネギ」であるが、連れが「納豆が美味しい」と薦めるので、「味噌ネギ納豆」しかも「大盛」と奮発してみた。


 客は私たちの他に二組だったので、ほどなく運ばれてきた。ところが香りから納豆が入っているのか疑わしい。一口食べてみたがその気配なし。レシートをみると、案の定「味噌ネギ」となっている。クレームかと一瞬思ったが、そこは大人の対応。注文を受けた年配女性も可哀想だし…「まあいいか」と食べ続ける。


 麺はそこそこだな、このスープの感じは「めん○○系」か、などと一応評価してみる。少し食べて辛みが足りない気がして、ラー油を少し足してみた。ネギは少し太いが、それなりのシャキシャキ感はある。チャーシュー2枚。それなりの厚さ…麺、具をたいらげて、スープを3口ほど。酢を入れて2口ほど…うーん。


 腹は満たされたが、どこか満足感がない。これは「まずくはないラーメン」だなと、評価の言葉がどこからともなく頭に浮かぶ。麺もスープも具も「こりゃあ、まずい」とは言えない。途中で箸をおくことはなく食べ続けることはできる。しかし、それまでだ。ラーメンの本質、つまり食する者を魅了する何かがない。


 「まずくはないラーメン」…スープの濃厚さや、ネギの細さ、チャーシューのバランス等と要素はある。根本は「まあいいか」と作り手が思うか、熱を持って追求するかだ。そう言いつつ「まあいいか」と入った客がそんな能書き語ってどうする!お前も似たような者だろと残ったスープに見つめられている気もする。

乱読の秋,深まる

2014年10月20日 | 読書
 「2014読了」109冊目★
 
 『叛骨の譜 町づくりに賭けた半生の記』(佐藤吉郎  無明舎出版)

 ここにある「町」とは,我が羽後町のことである。来年町制60周年を迎える。その三分の一20年間を町長として務めた著者が,選挙,就任を経て,在職時の思い出を中心にしながら,自らの一生を振り返った書である。他県の方々にはまったく興味が湧くとは思われないが,地方にある過疎の町の一つの典型とも言えるだろう。そして「政争の町」でもあった。

 著者が書いた歴史は,片面の事実,真実とも言える。ある人からみれば,違った容貌に見えるのは当然かもしれない。その観点から書かれた著もあるはずだ。手がけた大規模圃場整備,統合中学校創立,企業誘致や町活性化…時を経てその全てが今ここにつながっている。言うまでもなく,米づくり,学校再編,人口減への対応…知恵が必要なのはいつも同じだ。



 「2014読了」110冊目 ★★
 
 『セイジ』(辻内智貴  筑摩書房)

 初めて読む作家だ。装幀とカバー写真がとても雰囲気がある。収められているのは表題作の「セイジ」ともう一篇「竜二」。題名だけだとなんとなくヤクザ路線か、長渕剛の歌の主人公のようなイメージがわくが、それは違っていた。ただ、まるっきり違うかといえば、そうも言いきれず、ある意味の共通性を指摘できる。それは一種アウトローとしての生き方だ。

 「変わっている」のではなく「違っている」という評価を下すためには、少し高みにたった見方が必要だ。それが人を理解するためには大事になる。それは世間の目、常識とはまた違った観点でもある。セイジの場合は周囲の理解者、竜二の場合は母親…主人公よりむしろその人たちの心の動きによって、話者自身が変革するパターンか。文章がやや説明っぽい。

編み込まれた頑丈な言葉

2014年10月19日 | 読書
 2014読了」108冊目 ★★★
 
 『母のいのち 子のいのち』(東井義男  探究社)


 多賀一郎先生のブログで紹介があった本である。
 手にした本は新装版で平成13年のものだが、実際に発刊されたのは昭和54年。自分が教師に任用された年である。
 回想録的な部分もあり、昭和30年代から50年代にかけての子どもの作文や、東井先生の自らの指導のふりかえりなどが、短いエッセイ風に綴られている。

 教育は時代的な背景を抜きには語れないが、本質として揺らがない芯のようなものがこの著には多く詰まっている。
 それを表している文章の印象は、質素で目立たず、ざらざらした肌触りのようにも感じる。
 しかし、きっちりと編みこまれた頑丈な布地のように、どこまでもいつまでも身につけていられる安心感がある。

 たとえば日照りの夏に、灌水した田の稲とそうできなかった田の稲を比べて、できなかった稲の方が豊作だったことを例に、次のように結論づけている。

 灌水した方は、途中から根が地表に向かって伸びており、灌水できなかったところの稲は、びっくりする程地中に深い根をおろしていたといいます。やはり根のあり方が地上の世界のあり方を決定してしまうのです。


 不用意な支援や形式を整えようとする指導が、子どもの何かを損なっているかもしれないと考えてみること。
 「見える化」「可視化」「顕在化」…といった言葉の重要性は確かに認めながら、そこにとらわれる危険性を常に意識すること。
 時々、忘れそうになるそれらのことを噛みしめたい。

 この本の中でも、親の「愛」、特に母親が子どもの心を占める存在の大きさが強調されている。
 現在の世の中でも、例外はあるにしろ、母親の多くは子どもに愛情を注いでいるだろう。
 しかし、だからこそ、私たちは次の言葉を現実に即して語りかけていくべきだろう。

 「愛情」は「知恵」と一つになって、ほんとうの「愛情」に育つもののようです。


 「知恵」を働かせるには、様々な感情をコントロールできなければいけない。
 その拠り所になる、とても大事な文章がある。
 「教育とは」と語られる文章と多く出会ったが、これは深く心に染みいる一節となった。
 大人がわが身を振り返ることでもあるし、子どもの今を深く見つめる大事な視点でもある。

 「教育」というのは、人間を「欲望の僕(しもべ)」にではなく「欲望の主人公」に育てることだといっていいのではないでしょうか。


 主人公に育てるために、ハンドルやブレーキをうまく使いこなせるようにするのが「知恵」だろう。

運命を引きうけると決めた人

2014年10月18日 | 雑記帳
 隣市のワーク・ライフ・バランス講演会講師は佐々木常夫氏
 東レ経営研究所の社長である。

 ビジネス雑誌で読んだのが最初だと思う。自閉症,うつ病といった困難を抱えた家族と共に過ごした手記『ビッグツリー』という著書も読んだ記憶はあるが,記録が残っていないのが不思議だ。
 「生声」を聴いてみたいと思い,出かけてみた。

 今年の冬に二本の足を骨折し,リハビリ中ということで,椅子に腰かけたまま,少しトーンの低い感じでスタートした話は,中盤から結構熱気あふれる口調になり,惹きこまれる感じをうけた。

 ライフ・ワーク・バランスというテーマそのものより,仕事術やリーダー論に興味があった。そしたら案の定,そこが中心となり,刺激的な言葉がいくつも並んだ。

 仕事の効率化の両輪は,コミュニケーションと信頼関係


 無駄を省くことはよく強調されることだが,そこには基準,もっというと思想が必要であることを痛感した。
 例えば,佐々木氏は部下との面談を年2回行った(会社としては年1回)。それは2時間,初めに家庭や個人のことについて聞き,そして仕事のことに移っていくという。
 その設定やプロセスに込められている信念こそが,部下のモチベーションを上げていくのだろう。


 リーダーは,プレイングマネージャーになるな

 「組織の成果」と「部下の成長」こそが目的であり,自分が動くことによってのプラスマイナスはシビアに考えねばならない。なんとも耳の痛い一言であった。
 しかし後の質疑応答で,氏自身が「動きたい」という欲求をなかなか抑えられないことなどを聞き,現実的な受け止め方ができそうだとも思った。

 最後の締めくくりで「自分の人生観の真ん中にある」と出されたのは次の一言だった。

 運命を引きうけよう


 家族が大変な時は,自分の体調管理に万全を期していた氏が,少し平穏さが見られるようになったからか,不意のアクシデントで骨折し人生初の入院となったという。
 しかしその結果,入院がきっかけとなって,家族に嬉しい出来事が舞い込んだということも,質疑の中で明らかにしてくれた。

 終了後,サイン入りのポケットブックスを2冊購入した。それらの収益は全て社会支援として寄付するのだという。

 運命を引きうけると決めた人は,どこまでも前向きだ。

今年の秋の真ん中の週

2014年10月17日 | 雑記帳
 連休明けの火曜日。台風通過予報で子どもたちは3時間遅れの登校となった。前日に決定し連絡網を回した。比較的スムーズにつながり,朝の問い合わせの電話も皆無だった。結果的には天候はそんなに荒れずに平常登校も可能だったが,連絡体制確認が出来たことも大きな収穫だ。安全確保の比重は年々重くなる。



 水曜日。校内授業研究会があった。1年,6年ともに国語科。1年は説明文で,6年は物語である。短時間ずつだったが協議をしながら成果,課題をピックアップした。振り返って思うことは,言語を扱う教科だけれど,やはり実感や身体化といった点を大事にしたいということ。言葉の理解はそれも含めてあるはずだ。



 木曜日。校内マラソン大会となべっこ会。天候に恵まれて,いい活動となった。全部屋外で出来たのは本当に久しぶりだ。芋の子汁をいただいたり,写真を撮ったりしていたら少し眠くなるほど,のんびりムードだ。傍の子どもたちも他愛無いことを話しかけてくる。こういう時間は無くしてはいけないと改めて思う。



 金曜日。昨日の疲れも見せず,元気に登校してきている。朝から体づくりの活動を頑張る姿が頼もしい。学校報作成や諸連絡等を済ませ,午後から休みをもらった。隣市のワーク・ライフ・バランス講演会を拝聴するためだ。教育関係者以外の話をこんな形で聴くのは久しぶりだ。テーマではなく講師に興味があった。


かわいそうもうらやましいも誤魔化し

2014年10月16日 | 読書
 『言えないコトバ』(益田ミリ  集英社文庫)からもう一言。


 自分は直接子供には言っていない気がするが、大人たちとの語らいでは時折出てくるその言葉を、こんなふうに考えてみたことはなかった。

 「今の子供はかわいそう」
 と言われて、うれしい子供はいるのだろうか?



 確かに。
 自分が子供だったら「だから、どうした」としか返答できない。
 それから、筆者は続けてこうも書いている。

 また、反対に
 「今の子供がうらやましい」
 と言われるのも嫌だった。



 確かに。
 「それで」「何が言いたいの」と返すしかあるまい。


 「かわいそう」も「うらやましい」も、結局のところ、言葉を発した人間との比較で生まれている言葉である。
 しかし、その人間の「いつ」と比較しているのか。
 単純に「子供の頃」と比べているように思うが、実はそれはあくまで「今」の自分が見た子供の頃であり、評価を下している自分こそ問題視されなければならない。

 「かわいそう」「うらやましい」を作っている社会、大人…嘆いたり羨ましがったりする前にすることがあるだろっ、ということか。
 言われた子供自身がどうにもできない現実を、同情のような見せかけコトバを吐いて、ごまかしているに過ぎないのではないか。


 第一、「かわいそう」「うらやましい」と呼んでいいような感情を、子どもたち自身が持っているかどうかを、本当の意味で確かめることなどできないのだから。

 当たり前のことではあるが、子供にコトバをかけるなら、その子がうれしくなるような、または、くそっがんばってやるとしんから思うような、そんなふうに気持ちを動かせるものを選んでいくべきなのだ。

「言えない」から「言わない」へ

2014年10月15日 | 読書
 「2014読了」107冊目 ★★★
 
 『言えないコトバ』(益田ミリ  集英社文庫)

 こういう本に出会うと心がくすぐられる。
 表紙絵にある人物(筆者だろう)の吹き出しにはこうある。

 「なんちゃって」ってまだ使っていいのか?


 筆者の描くイラストの日常感あふれるタッチを好む人は結構いるのではないか。
 それは絵そのものと同時に、当然ながら発想に共感を持てるからだろう。

 「言えないコトバ」として取り上げられたのは「おひや」を初めとして39項目、その他にもあるから50は越えているだろう。
 半数以上いや8割程度は自分も同じような感覚を持っていた。

 そのなかで、自分が抱いていたけれど正体がつかめなかった感覚を言語化してもらったと思ったいくつかの言葉がある。

 おもてなし

 この著は2012年であるが、筆者はすでにこの言葉に違和感を唱えていた。

 昨年、あのオリンピック開催決定で一躍「時のコトバ」になり、どこかの会で挨拶に使う人もいた。しかし私はどうも気に入らなかった。
 その理由はぼんやりしていたが、この本のなかに料理を例にこう書かれてあり、ああそうだと悟った。

 さあ、どうぞわたしが作ったものを食べてくださいってアピールすることが、気恥ずかしい


 アピールに使われる「おもてなし」とは、本当の意味なのか。


 「さばさば」「足し算・引き算(という算数コトバ)」などの項も考えさせられた。
 なかでも、この言葉のもつ心のあり方は、なるほどと納得させられた。

 つかえない


 筆者はこう書く。

 以前は、「気がきかない人」とか「段取りの悪い人」とか「要領の悪い人」くらいで済んでいた感情なのに、それが「つかえない人」という表現に切り替わったとたん、そこにはひんやりとした暗さが宿る


 この暗さの正体は、差別や独善に近いだろう。
 他者へのあっさりした評価が、自分にとって「つかえる」か「つかえない」かという極めて利己的で不遜な表現にすり変わってしまった社会。

 自分も冗談交じりに口に出したことがあったかもしれない。
 しかし、それは心が巣食われていた証拠か。
 「言えない」から「言わない」にはっきりシフトさせるコトバだ。

 もう一つ、興味深いコトバがあったが、次回に。

ご先祖様になれない私達

2014年10月14日 | 読書
 「2014読了」106冊目 ★★★
 
 『ご先祖様はどちら様』(橋秀実  新潮文庫)


 第10回小林秀雄賞を受賞した作品であり、クオリティも高いのだろうが、いつもの橋節?で楽しく読めた。
 自分の先祖のことなどあまり考えたこともなかったし、あっても自分の記憶にある範疇、つまり祖父母とその兄弟ぐらいまでしか遡っていなかった。

 しかし、改めて数的なことを考えてみると、自分の「ご先祖様」の人数にはびっくりする。
 単純に20代さかのぼって計算してみると、一人の人間に対して1048,608人いることになる。一世代を20~30年と考えて、およそ500年前の日本?には私の先祖が100万人いる。

 これって結構な数ではないか。
 そんなふうに考えると、その中には歴史的に有名な人もいたりして…というミーハーな気持ちも出てくるのである。

 著者が書こうとしたきっかけは知り合いの先輩作家に「縄文人」と言われたことから始まる。
 そこからの追求の仕方は、やはり橋節。
 ちょっとした言葉を気にする、仕草に心が動く、ひょっとしたらという妄想を働かせる…その巡り方は物語のように面白いが、はっきり言って劇的な展開とまではいかない。

 それは結局のところ、家系調査をめぐる困難な壁ということだ。それゆえそこに関わっている人物のユニークさをうまく引き出していると思う。

 この本の一つの結論はこれだろう。

 家系は考えるものではなく感じるものだと思うしかない


 これは敗北や撤退宣言ではない。
 いろいろと歩き回った末に著者が、はっきり「知らなくていい」と認識した一言だろう。

 次の文章にも深く納得できる自分がいる。

 わからないからこそ、先祖は「ご先祖様」なのである。確かに、もし先祖の記録が現代の個人情報のようにどこかに保存されていたら、と想像するとゾッとする。

 そして、さらにゾッとするのは、そういう時代に自分たちが生きているということ。

 この本に多く出てくる墓地のシーンを読みながら、時々墓参りに行き、ふと思い浮かべることが頭をよぎる。
 何十年後、何百年後、この墓地はどうなるのか…想像できずに佇むしかない。
 自分も誰かの先祖にはなっているのかもしれない。
 しかしこの場所の土になっている時代に、今の自分の記録だけはきっと明確に残っていたりする、どこで何をしたかだけではなく、どんな経済状態で、何を好み何を買っていたか…それじゃあ、やはり「ご先祖様」と崇められることはないだろうな、たぶん。

物語の予告編でもみたような

2014年10月13日 | 雑記帳
 連休初日の夜,翌日に行われる国民文化祭「盆踊りフェスティバル」の前夜祭として「町流し」が行われた。「阿波踊り」「郡上踊り」「おわら風の盆」の出演である。どれも確かに魅力的ではあるが,やはり「みせる踊り」としての西馬音内盆踊りが抜きんでていると感じた。「見せる」はまさに「魅せる」なのだと思う。


 「阿波踊り」は一言でいえば明快な踊りだ。おそらくは全国各地で演じているメンバーなのだろう。装いや目鼻立ちのくっきりさが,姿そのものを際立たせている。本場で様々な「連」が共演する様子をぜひいつか観てみたいと思った。「踊る阿呆に見る阿呆,同じ阿呆なら…」という文句のエネルギーが身体に宿る。


 「郡上踊り」は「かわさき」という踊りでスタートし,どこか平凡に思えたが,踊りの列が遠ざかったあたりで始まった「春駒」に心が躍った。身動きできないほどの観客の多さで遠くからしか見えなかったのが残念。変化のある構成が魅力的に聞こえる。その踊りを三十数年前,東京の明星学園で目にしたことがあった。


 楽しみに待っていた「おわら風の盆」。男衆の凛々しさは,まさに格好がいいとしか言いようがない。そして哀調を帯びた唄声。これが夜の町内各所に響くとしたら,確かにたまらん風景だ。短時間に何か物語の予告編でもみたような「町流し」。商品化という側面を持ちながらも,そこには確かに深い文化が流れている。

栗を拾いながら豊かさを

2014年10月12日 | 雑記帳
 金曜日の給食は「羽後町まるごと給食」と銘打って,地場産の食材を使ったメニューだった。最近は各市町村いろいろなところで実施されていると思う。本町では,その日に生産者や町関係者などが来校し,児童と一緒に会食するスタイルをとっている。生産者からの挨拶も入れて,なかなかいい試みだと感じた。


 会食の前後にその方々と雑談をしていたら,最近の食事情について話が及んだ。地元産は手間がかかる,農村部であっても山菜を調理できない世代が増えている,スーパーの惣菜では昔の味を求める人が多いので,パートとして料理を覚えている年齢層の雇用がある,家族の少人数化が進んでいるのでやむを得ない…。


 食に関わる問題からは,明らかに社会状況の問題点が浮かび上がってくる。健全な成長のため「孤食」や「個食」は避けたいと話しても,現実にはどう仕事と折り合いをつけるか問題が大きく,悩みはつきない。ただ言えるのは,今の若年層,保護者世代を支えていく私達自身が工夫すべき,実行すべきということだ。


 連休初日,朝から近くの山へ。あいにく茸はもう時期は過ぎたが,例年並に栗を収穫できた。その後の家人の栗剥きは結構な作業だ。しかしそこにかける時間は,豊かさへの接近と言えないか。何に手間をかけるかは,個の自由だろう。ただ,その目が自分に向くか,周囲に向くか…そこには質の違いが芽生えてくる。