すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

今週の喜怒哀楽

2015年06月20日 | 雑記帳
 「今朝、玄関を開けたらホタルがいた」と夕餉の支度をしながら家人がいう。「ええっ」と疑わしげに驚くと、証拠があると娘がスマホで撮った画像を見せてくれた。ホタルは珍しくはないが、時期的には少し早い。ずっと気温が高かったことと関係があるのだろう。まだ「夏」と思っていなかった自分に気づいた。


 夕方、徒歩での帰り道。後ろから車が近づく気配、か細い道路なので右端に寄る。通り過ぎる車内を見たら女性が携帯を片手にハンドルを握っている。少し行くと何故か右端に停車。ああきちんと電話で話すのか…。仕方なしに車の左を越すと突然車が動き出す…唖然。そして十字路をウインカーもつけずに右折した。


 朝刊にF先生の訃報が載った。F先生は本県教育界の重鎮のお一人である。国語教育の大先輩であり、何度となくお話を伺った。お声をかけていただいたのは、県大会をこの地区で開催した20年前以上のことだ。現役を退いて長くなるが、お姿はいつも元気だった。忘れられない一言をいただいた方でもある。合掌。


 東京フィルハーモニー交響楽団の芸術鑑賞教室を行うので、その事前ワークショップで団員の方6名が本校に見えられた。中身の一つにボディパーカッションがあり、曲がかのベートーベン「運命」である。最初のジャジャジャジャーンの箇所で、身体を自由に叩く。昔からありそうで、しかしやれなかった表現だ。

言語技術を使う意識を

2015年06月19日 | 雑記帳
 校内授業研究会で体育が取り上げられた。今年の研究テーマの副題「言語活動をより一層充実させるための工夫」にそって授業が展開された。核となるのはグループにおける子どもたち同士の教え合いである。言語活動をその時間のねらいに近づくための重要な要素と考えることになる、結構高いハードルに思える。


 言葉とスポーツの関係は最近とみに密接になってきた。マスコミ等の取り上げ方もあるだろう。一流プレーヤーによるたくさんの書籍も出ている。その中に真正面からこの点について書かれた印象深い新書がある。『「言語技術」が日本のサッカーを変える』、2007年発刊であるから、あれから8年…変わっていないか。


 結局、やらせられるスポーツではなく、自ら考えて身体の力を発揮し、競技に向かうイメージだろう。特にチームスポーツにおけるコミュニケーションの大切さ、自己決定していくことの積み重ねは大きい。それらを高めながら運動に取り組むことは、教育課題でもある。そう考えると体育の授業づくりも意義が深い。


 おそらくは「身体を動かして心地よい、楽しい」という感覚が、初めに必要だ。次に克服や勝負が伴う場面が出てくる。ここが大きなポイントだ。運動に対する適性や能力面を考慮しながらとなるが、設定と励ましによって負荷や情意を調整していく。その過程の中で自らの振り返り、周囲からの刺激を織り交ぜていく。


 どう言語活動を盛り込むかと同時に、使う言語技術を国語科のなかでどう教えていくかを考える必要が出てくる。件の授業では、あるグループがビデオを見ていた。国語科の内容として、ビデオを見て気づきや考えの述べ合い方を学ぶ活動が普及してもいい。ピンポイント設定であっても、単元であっても方法はある。

本質を見抜く眼

2015年06月18日 | 読書
 【2015読了】56冊目 ★★★★
 S11『大西流 授業の見方 』(大西貞憲・玉置崇  PLANEXUS)

 この本については「授業を見抜く三つの原則」と題して、感想をアップしている。
 総括的に書いたことであり、その見方は今も変わらない。いい本だ。

 今回は個別に目が止まったところをメモしながら考えてみる。

 「授業力を高める管理職のリーダーシップ」という項目がある。
 多くの学校を参観される大西氏が、好例として挙げていることをキーワードとしてまとめれば、以下の通りである。
 
 ・現状把握
 ・成果の発信
 ・課題の明確化
 ・教師自身が学び合う仕掛け


 自分は半分程度しか出来ていないと反省する。 
 「場づくり」「ポジィティブな評価」をもっと意識するべきと思う。
 できない言い訳は数々あるが、これもできることから。

 「グループ活動の見極め方」が三点にわたって記されている。
 つまり、活動前、活動中、そして活動後である。
 いろいろな研究があり、重なる部分も多いがこれほどすっきりまとめられているものはそうはないだろう。

 活動前のキーワードは「必然性」「問いかけ」「育てたい子ども像」
 活動中は「見渡す」「見極める」
 そして、活動後は「つなぐ」「触媒」…といったところだろうか。
 教師がとかく陥りがちないくつかの点について振り返させられる。

 教師が「ねらいとの整合性」を持って「関わり方のコントロール」ができるかどうか、一つ一つの教材研究、授業行為に当てはまることだ。

 全国的にも数多くはいないだろう「学校経営や授業に関するアドバイザー」の眼は、やはり本質を見抜いていると今回も感じた。

決定力についての決定

2015年06月17日 | 雑記帳
 サッカーファンならずとも、昨夜のシンガポール戦はいらいらとした気持ちで観たのではなかろうか。圧倒的なボール支配があっても肝心の点数がとれない。強化試合の順調さを見ているだけに、まったく裏切られたような思いを抱いたのではないか。そして繰り返されるのは「決定力」という言葉。宿命なのか。


 「決定力不足の…」という、決定力について決定力の不足したような文章を書き散らしたことがある。あれから7年経っても状況は変わらない。ちょうど昨年の今頃のワールドカップ後にも、幾度となく目にした。あの頃、糸井重里がほぼ日「今日のダーリン」に書き残した文章で、その決定力に触れたことがある。

 「決定」したところを見たから、
 結果論として、そこに「決定力」があったのだとも
 考えようとするのだけれど、そうじゃないんだよなぁ。
 「決定力」は、決定する前の動きから、
 すでにむんむんと漂っているように思えるのだ。



 今回の日本代表チームに、それが漂っていたか。どう見たかは人様々であろう。欧州有名クラブへ移籍する選手も増えた。監督も変わった。中心選手らが語るモチベーションが下がっているわけではない、新しい力も台頭してきた、そして強化試合等は順調にこなしてきた。そのレベルが如何ほどか。糸井は続けて書く。

 たぶん、それは「経験」というものと、
 強く関係していることなんだろうなと思う。
 (略)
 当事者として「決定」に関わった経験が、
 しだいに身についていって「決定力」になるわけだ。



 対戦するチーム競技スポーツ。特に相手と身体の接触がある種目に関して、日本人の弱さを指摘する声がある。試合後のハリルホッジ監督が喋ったことに「狡賢さ」といったニュアンスもあったように聞いた。武士道精神が重く足を引っ張っているのか。潔さをどのレベルで見せるか、これにはやはり多量の経験が必要になる。糸井の結論はこうだ。

 「本場でもまれてくる」なんていうことがあると、
 圧倒的に真剣な「経験」が蓄積される。
 この「経験」というものの絶対量が
 「決定力」になって表われるんだとしたら、
 これはねー、身につくまでに時間かかるよねーー。


瓦礫はまだ残っているのだ

2015年06月16日 | 雑記帳
 大震災から少し経った頃か、「瓦礫という言葉を使わないでくれ」という訴えがあったことを覚えている。自宅を流された方々が、連日のように報道されるその言葉に反応してしまうことは無理のない感情だ。傍観者の想像力欠如を鋭く指摘された思いがした。言葉の意味は、取り巻く出来事や場で大きく左右される。


 「瓦礫」は「かわらと小石、破壊された建造物の残骸」という意味を持つ。そしてそこから派生した「価値のないものの集まり」という意味にも使われる。表面的には残骸に過ぎないそれらを、価値がなくなったということにできない心情。それは思いが詰まっているからであり、物質にも風景にも宿るものだろう。


 福島の旧警戒地区に残った牛を「動くがれき」と言った役人がいたという。処理的な視点であることに間違いない。どのような解決があるのかわからないが、そこへ置き去りにされた牛を飼い続けている人間もいる。その思いは損害賠償請求という表面的なことでは括れない。経済的価値も一元的ではないということだ。


 唐突だが、本校にある石碑「故里の山河美し故里のこころ美し」(井上靖)を見て、ふと気付いた。多くの被災者は「心の瓦礫」を消し去りたいという思いなのではないか。困難だけれど、その過程でしか道は開けない。とすれば結果や進捗は気になるが、一緒に進んでいるという感覚こそ励まされる。出来ることから。

仕舞いの言葉が耳に残る

2015年06月15日 | 読書
 【2015読了】55冊目 ★
 『雪国の絵本 子ども・生活・遊び』(ほった圭 無明舎出版)


 特徴のあるイラストに惹かれて購入した。私より9歳ほど年配の隣市に住む元学校事務をされていた方の画文集である。内容は帯にあるように「昭和20~30年代・子ども遊び図鑑」と言っていいだろう。懐かしい!と久々に思い出したこともあれば、しみじみと感ずるものも多い。高度成長が始まる少し前、貧乏や冬の寒さの中で子どもたちは生き生きしていた。


 全国どこでもポピュラーな遊びだったと思うが、「カンけり」はよくやった。近所に広い空地はなかったが、ちょっとしたスペースや路上で繰り返し繰り返し遊んだ記憶がある。どんなふうに止めるか、ということをこの絵本が思い出させてくれた。どこかの家の夕食の匂いがしてきて、誰かの声で「飯(まま)できだど―」と聞こえたときが終了の合図だった。


 その年の初雪に一年生が窓の外を見て「ばんざあい」と叫んだことがあった。自分にもそんな時期があったはずだが、その感情は遠くなっている。この本に挙げられた「雪玉割り」「竹すべり」「ドフラ」「シャカジキ」…と10を超す遊びの世界が広がることを考えると、まさに雪の訪れは喜びでしかない。雪の遊びの仕舞いの言葉は「ううっ、さび(寒い)」だった。


 幼少の頃から温厚だった(笑)ので、取っ組み合いや諍いが頻繁だった記憶はない。しかしこの言葉を見たとき(何十年ぶり、おそらく五十年以上ではないか)、自分も確かに、何度となく言い放っている台詞であることを確信した。「オメどなば、あど遊ばね」…こう言ったが、翌日もしくは数日後にはまた同じ遊びをする。生の感情を発しあう潔さがあった。

自分の限界、道徳の限界

2015年06月14日 | 雑記帳
 道徳の授業に、まともに向き合ってこなかったなあ。これは正直な述懐だ。それゆえ公開授業などもきわめて自分勝手な視点で見ている。相当の実践を積まれ実力の十分感じられる先生の授業であっても、ここはこの考えを取りあげればすっきりするのに…、ここは束ねて問い返したら…とかなり独りよがりモードだ。


 今回参観した授業も、この意見が出たならそこを深めればいいのになあと途中で思ったりした。授業者は突っ込まず、より多くの意見を待ち、拾い上げた。結果的に終末では私の考えたことも含まれる納得の収め方で、さすがだなと感服した。指導過程や発問など何ほどのものかと感じられるほど、育ちが見られた。


 特に道徳的思考が身に付いていると感じさせる言葉を、自然に子どもたちが口にしたとに驚いた。「道をつくる」「てんびんのように考えて」「スケールの違いはあっても」…生き方や思考に直接結びつく言葉が、授業の中で発せられることは、読み物資料内の言動に深く入り込んでいて、自分と周囲を重ねつつある。


 分科会の助言者が、道徳的実践力と道徳的実践とは同じでないと語った。これは実に重い言葉だ。道徳の授業で育てるべきは何かはっきりしているが、その成果をどの時点でどの地点で評価できるか、という大人側の問題と言っていい。一時間の授業でも判断できるし、長い年月でも判断できない、という矛盾を持つ。


 もう一方の助言者が話した『心のノート』から『私たちの道徳』へ移行した背景の一つも興味深かった。教科化をにらんだ教科書作成に絡むことは当然予想されるが、民間のノウハウを活かすという言葉で結局は読み物資料に納まっていくのであれば、旧態依然としていると思わざるを得ない。道徳の限界も感じる。

卵かけご飯を語ろう

2015年06月13日 | 雑記帳
 朝夕食ともに米飯をあまり食べない生活をしていると、数か月に一度は無性に「卵かけご飯」を欲する時がある。コレステロールが高いので控えていたのだが、最近はその根拠があまりないという嬉しい情報もあり、時々食するようになった。この直球の美味さはやはり「ご飯の友」ランキングとしてはかなり上位だ。


 卵かけご飯が登場?する印象深いドラマがあった。稀代の美食家北大路魯山人の一生を、緒方拳が演じたのだった。仕事が終わって自宅に帰った魯山人が、卵かけご飯を夢中になって食していた。正確な文献等もあるかもしれないが、私が見た食べ方は、卵を軽く混ぜてご飯にかけ、きざんだ海苔を散らすものだった。


 雑誌『サライ』が先月号で「玉子かけご飯を究める」という特集を組んだ。かなり前にお土産でいただき、その存在を知った「卵かけご飯専用醤油」があるくらいだから当然と言えば当然だが、卵かけご飯専門店もあり賑わっているそうな。世の中には究める人がいれば、そこに集う人もいるものだなと改めて思う。


 その店々には足は運べなくとも、誌面で推薦された食べ方はしてみたいなあと、食いしん坊一家の意見が揃った。試したのは全部で三つ。最初は「ふかふか玉子かけご飯」である。最初に白身だけを熱々のご飯に落としかき混ぜる。泡に包まれた状態になったご飯に黄身を乗せ、醤油を垂らしながら食していく。美味。


 次に試したのは、全国コンテストで優勝を果たした食堂の食べ方。卵をかける前にご飯に醤油を回し、よくかき混ぜる。その上から溶いた卵をかけ、あまり混ぜずに食べる。これは意図はわかるがたぶん黄身の質に左右されるだろう。最後は家人が誌面を見て推薦した「玉子飯」。なんと江戸時代の料理書に載っている。


 溶き卵をご飯に絡めて蒸らす。昆布や鰹節の出汁と醤油を混ぜてかけ汁を作り、茶碗に盛ったご飯に海苔、ネギなどの薬味とともにお好みでかけて食べるというもの。あまりインパクトはないと思ったが、胡椒を入れると締まった味になった。いつか食したいのは「塩玉子飯」。これは塩漬けが必要で一カ月かかるという。

75点くらいのウィークデイ

2015年06月12日 | 雑記帳
 月曜日。朝、読み聞かせの本と紙芝居を決定する。その後昨日の陸上競技大会の成績紹介を学校報用に打ち込み始める。町大会より少ないが、それでも結構な量だ。先週の様子も学校報へ。一年生への読み聞かせ、『うえきばちです』は予想通りに大騒ぎ。『ハンスとこひつじ』はしっとり聴いてくれた。75点くらいか。


 火曜日。三年生の遠足引率。残念ながら小雨模様だ。バスの中での子どもたちの様子観察は楽しい。妖怪ウォッチや「あったかいんだからあ」の歌が出てくるのは当然として、ユーミンの「ひこうき雲」に少し驚く。アニメの影響だろうが「空にあこがれてぇ…あの子の命はひこう雲…」は、10才の遠足の歌なのか。


 水曜日。学校報仕上げ。午後からの町の会議に向けての資料づくり。来年度を意識した仕事が量的に多いと感ずる(自分はいない時のこと…)。校内報に取り掛かったが時間切れで、会議出席のために隣の中学校へ。全国学力テスト分析、今年度の研修、会則改正案などすべて大事だが、じっくりと検討する余裕もない。


 木曜日。昨日の会議を受けて会報作成し、事務局へ送付する。ずっと取り掛かれなかった学区地図貼り合わせ作業に取り掛かる。範囲が広すぎ部分的な形で終了する。初任者の学級で図工、来週研究授業予定の6年体育などを参観。「教師の言語量」について校内報を仕上げ印刷する。ちょいと疲れた。久々の頭痛だ。


 金曜日。付属小学校公開研に参加。元同僚が主任となって研究説明、堂々としたものだった。道徳、国語、外国語の授業参観、そして道徳の分科会へ。教科化を意識することとは何か、改めて考える。それにしても一般参加者が少ない。夕方からは役場庁舎で市町村対抗駅伝の実行委員会。選考に関しては一歩前進か。


メモ、納得やら憤りやら

2015年06月11日 | 雑記帳
 机の中にあった一冊のメモ帳。もう最後まで使い切っている。
 相変わらず、いつの、誰の言葉かも明記されないものが多く、使い物にならない。
 しかし、書きつけた言葉を見ているうちに思い出せるものもある。

 集団登校は社会の一歩。助け合い。

 これはPTAの講演会で招いた、ある企業人の言葉だった。
 集団登校に限ったことではないが、繰り返される日常だからこそ、子どもにとっては重要だ。
 しかも多くの場合、自分が低学年として面倒を見られる立場から、段階を経て面倒を見る立場へ変わっていく。明らかに社会の縮図的な意味合いも持っているだろう。


 関係づくりの第一歩は相手への関心。
 肯定的枕詞→君もわかっているだろうが~
 うまくいっていた時、いい過去をふりかえらせ、イメージづくりを


 これは、特別支援関係の講演を聴きにいったときのメモだ。
 未整理なままにしておくから、実践に結び付かない、理解が深まらない。反省しきりである。
 メモは材料だから、どこかに活かさなければ…。


 聞いた言葉を書きつけた後に、自分の考えを勢いで書いた跡もある。

 中長期的な費用対効果より、短期的な費用対効果を考えて

 これは確かある会の冒頭の挨拶で、エライ人が述べたことと記憶している。
 このことに関して、次のように書きつけている。

 こんな言葉を堂々と言っていいのか
 費用対効果という、可視にほんろうされている
 誰のための効果なのだ


 今に始まったことではない。
 成果とか評価とかスピード化という言葉の背景には、常にそのことがあったのだ。
 しかし、教育の現場にある、子どもたちを目の前にしている私たちが、それをあからさまに口にすることは、何のプラスにもならない。
 憤りを感じた。

 政治の世界で進みつつあることとも似通っている。
 そんな風潮をなんとも思わなくなり、例えば「チーム」という言葉で自分もその一員に加えられていくことを、警戒しなければならない。