すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

勉強落伍者の詭弁か

2015年06月10日 | 読書
 【2015読了】54冊目 ★★
 『勉強について、私たちの考え方と方法』(小山政彦・羽生善治 PHP研究所)

 言うまでもなく一方は天才棋士。もう片方の人は船井総研の社長であり、出版社の宣伝によれば天才コンサルタントらしい。
 天才同士が「勉強」について語ることが、凡人の自分に何か役立つだろうかとは思いながら、その雰囲気にでも触れれば少しは頭がよくなるような…。

 と、そんな考えに冷や水をかけられたのが、次のところである。

 机の整理がきちんとできることから始めれば…(中略)…実は一番脳を鍛えられるんじゃないかなと。その結果として、集中力や根気や達成力や追求心を強めることもできるんじゃないかなと思う。(小山)

 空きスペースをどんどん作っていかないと、新しいものが入ってこないので。そういう意味での整理整頓はすごく大事ですよね。(羽生)


 何度も書いているように、整理整頓は自分の鬼門であり、すでに落伍者宣言をしている。
 しかしそのことが、勉強効率を下げていることは思っていてもこうずばりと宣言されると、結構つらいものだ。
 ひたすらに詰め込んだり、重ね合わせてみたりしても、結果何も引き出せないような頭になってしまったか、ああ…と落伍者は嘆く。

 ただ、面白いことに、いくら机の上が山積みでも、本当に自分にとって大事なモノのありかは結構覚えたりしていて、早く出せたりする。
 この原理でいうと、あれやこれやと詰め込んでも、それが真に大切ならば浮かびあがってくる、とこう信じて今回の読書からも、その候補作をメモしておこう。

 将棋の対局へ臨むメンタルなことから、闘争心と結果について話しながら、数学の話題に移り、小山がこんなふうにまとめ、羽生が返した言葉が深い。

 美しい秩序がないといけない気がする。数学も将棋も、苦労して一つ一つ計算して答えを見つけた時が美しいのです。(小山)

 ある意味何の役にも立たないことなのに、何百年もかけて考えているという点が美しいっていう(笑)。その中にあるものに価値があるのですね。(羽生)

 美しさの存在をどこに見つけられるか…うーん、この混沌とした机上にも美しさは潜んでいるかもしれない。
 詭弁だな。

たまには戯作遊び

2015年06月09日 | 雑記帳
 講談社の『擬音語 擬態語辞典』を見ていたら、巻末に俳句や短歌が載っていた。

 そこに、坪内稔典の例の甘納豆の句があった。
 この句を初めて見たときは、えっ、ええーーっと思ったものだ。

 三月の甘納豆のうふふふふ

 俳句に詳しい人はご存じだろうが、これはシリーズもののようだ。
 つまり「甘納豆」シリーズ。この辞典にはもう一つ載っていた。

 ほろほろと生きる九月の甘納豆

 残りの月も当然あって、こちらに一年間分が紹介されてある。


 ところで、どうして甘納豆なのか。
 食べ物としての甘さ、形状、大きさ、固さ。
 そして「アマナットウ」という発音からくる響き。
 人が食べるときのシチュエ―ション…といった要素が絡み合った選択なのだろう。


 これが同じ甘いものでも「かりんとう」では、ちょいと様相が異なってくる。

 戯作しながら、感覚を確かめてみよう。

 三月にかりんとう食べうふふふふ

 ぴんとこない。

 三月にかりんとう食べイテテテテ

 虫歯の句か。

 かりかりと生きる九月のかりんとう


 こういう単純な真似ではイメージが結び付かない。
 よって、少し発想を変えてみる。

 かりんとうと甘納豆を比べたとき、形状、触感、味覚等々、それによって何が喚起されるというのか。
それは堅さ、ざらつき…そうか生きる厳しさか(笑)。


 かりんとう齧れば三月も末

 
 口の中こなごな九月のかりんとう



 なんだか、山頭火か放哉みたいだ。しかも甘ったるい。

陸上競技大会小景

2015年06月08日 | 雑記帳
 日曜日に陸上競技大会があり、応援に出かけた。先月は町だったが今回は郡市なので範囲が広い。レベルもいくらか上がるが、単純にそう言えない面もあるのは、スポ少活動との兼ね合いだ。有望であっても出場しない子は本校にも、他校にも少なからずいる。少子化、多様化、偏在化の一つの典型と言えるだろう。


 練習量はどこの学校でも少なくなっている。教えたくとも様々な制限が多い。いい例をリレーのスタート前に見た。もともと種目を兼ねられないので少ない参加チームだが、氏名をコールされても挙手、礼が出来ない学校がほとんどだった。うちの学校はその点きちんとやれていた。続けて参加している強みと思う。


 以前勤めていた学校の子どもたちを見るのも、一つの楽しみだ。背も伸び、表情も大人びて、気軽に声をかけることをためらわれる子もいるが、個人競技ゆえにじっくり観察できる。走る姿を見て、ああこの子は全然駄目だったのに、よくここまで頑張れるように…。そういう成長の一断面を見られることは嬉しい。


 成績掲示板の辺りにいたら、後ろから「ヌマザワさん」と声をかけられる。振り向くと、前任校の今は六年生になっているHくんという男児。一瞬、ほおおっと思った。「先生」でも「〇〇先生」でもなく、直接名前とは…。それだけコミュニケーション能力が高いのだろうか。良くも悪くもこれほどの小学生は珍しい。


 珍しいといえば、こちらは見知らぬ小学生のこと。隣の野球場近くを歩いていたら、足下にボールがころころ…。キャッチし追いかけてきた子に手渡したが、何の反応もない。すぐさまそのボールを友達?にぶつけ始めた。しばし唖然。ユニフォームは来ているが、競技そっちのけの遊戯三昧。昔はこんな子が多くいた。

自分の読みに責任を持つ

2015年06月07日 | 読書
 【2015読了】53冊目 ★★★『日本語の学校』(鴨下信一 平凡社新書)


 先月、横山験也先生のブログで紹介されていた。

 これは音読や朗読に関わる者にとっては必読書の一つと言える本だろう。
 学校教育の場にどの程度取りこめるかは、いろいろと判断する必要があるにしろ、今までちょっと考えてこなかったことがある。

 最初は「間」に関することが多く、これは簡単に飲み込めたのだが(といっても、間の取り方のバリエーションの多さは新鮮だった)、次の「音色」は考えさせられた。

 著者は、こんなふうに繰り返して、音色を強調する。

 「音色」が日本語の本質

 音色こそ日本語の秘密



 例えば、黒川伊保子著の『日本語はなぜ美しいのか』『怪獣の名前はなぜガギグゲゴなのか』に通ずることがあるように思うし、まったく不案内ではあるが能や歌舞伎などの声に惹かれてしまうこととも関わってくると思う。

 また、こんなふうに書いている。

 伝染する音色

 これは「赤いバラ」と「白いバラ」の読み分けによって、「赤い音色」と「白い音色」が「それぞれ「バラ」に「移る」のだという。
 一筋縄ではいかないレッスンだとわかるだろう。

 それゆえ、やはり実際に声に出してみたくなる、試したくなる、そういう類いの書である。
 きっとこれをもとに実技研修などやれたら素晴らしいだろうな…。


 一時の音読・朗読ブームは少し陰りを見せているように思える。
 しかし、声に出すために「ゆっくり読む」ことの大切さは、しっかりと言葉に向き合うことに他ならない。
 それはブームで終わってはいけないことだ。


 読む人は、自分で読みに責任を持ちなさい。そのためにどういうことを知っていたらいいか。どんなことを調べたらいいか。

 あとがきに著者が書いたこの一節は、平凡に見えるが実に厳しい一言だ。

 明日は、一年生への読み聞かせの当番だけれど、ちょっと緊張する。

ヒツジとライオンを見ている…モノ

2015年06月06日 | 読書
 【2015読了】52冊目 ★★
 『ヒツジで終わる習慣、ライオンに変わる決断』(千田琢哉 実務教育出版)

 ビジネスマン向けの本などあまり手にしなくなったが、古本屋でなんとなく題名が面白いと思い買ってしまった。
 ある程度予想通りの「ヒツジ」と「ライオン」の定義が表紙裏にあった。

 ヒツジとは、何かあるたびに群がって
 結局何も成し遂げられない人
 ライオンとは、いたずらに群れず
 弧高に物事を成し遂げようとする人


 そして、こう問いかける。

 どちらの道を選ぶか、すべてはあなた次第。

 読者の多くの言語的選択?は明らかだ。
 問題は行動としての選択というわけだ。
 ということは、行動に結び付くような提言があるかどうか。いや行動せざるを得ないようなインパクトのある内容かどうか、だ。

 「すべてはあなた次第」の「あなた」とは著者自身なのですよ…そんなふうに穿った見方をしては駄目か。
 主たる読者層とは言えない私の世代には許されるかな(笑)。


 「行動」「価値観」「スタンス」と三つに分類されているが、どれも似ている気がする。
 ちなみに、最初の項目はこうだ。
 
 ヒツジはいつも「根拠は?」と口にする。
 ライオンはいつも「とりあえず」やってみる。


 なかなかいいところを突いていると思う。
 コンサルティング的な仕事を続けてきたら、こんなふうに端的に目をつけて語れるのだろう。

 観察力がある。それを文章表現にうまくのせている。
 秀逸と思ったのは、これ。

 ヒツジは、「えー!?」という顔が暗い。
 ライオンは「えー!?」という顔が明るい。


 次もうまく表現されているし、思考によく働きかけられている。

 ヒツジは正解だとホッとする。
 ライオンは絶句されるとホッとする。


 ううむ。なんとなくインパクトがじわじわ寄せてきたぞ。
 しかし、安定安心を求めている初老の男は、そんなにすぐには身体が動かない。
 でも少しはやってみるかという気持ちになる。
 勝手な解釈をもとに、次の項目を頼りにしよう。

 ヒツジは努力がすぐに
 報われると考えている。
 ライオンは努力が
 繋がっていると考えている。


 さしたる努力もしないから、ナマケモノか。

重く深いキニナルキ

2015年06月05日 | 雑記帳
 講談社「読書人の雑誌」と銘打った月刊誌『本』の今月号は、気になる表現がいくつかあり、少し考えさせられた。


 せっかく高度な社会に生きているのだから、何百年か前のように家族しか信用できなかったり、親戚同士でしか助け合えなかったりするのではなく、もっと社会の仕組みを信用して良いのではないか。(山崎ナオコ―ラ)

 基本的に自分も社会を信用している。
 信用しているからこそ、日常生活が営めているはずだ。
 しかし、今の多くの制度は信頼するに足りるとは思いつつも、一方では山崎が言っていることと反対の方へ思考が動いていることも認めなければならない。

 社会の仕組みをあまり信用せずに、自力で解決し、身近な周囲で助け合っていけばいいのではないか…。
 そんなふうに作り上げていくべきではないか…。

 こう書いてくると、その自分の思考そのものが、社会を危うくしているのではないかということに思い至る。

 制度やルールに身を委ねて受身でいる存在も認めよう。
 そのうえで、自らが社会の一員としての参画や参加によって、維持したり改善したりする動きを絶やさぬようにしよう。
 これが基本的な姿勢になるか。

 仕事に就いているうちはそんなに意識しなくてもいいのかもしれない。
 しかし確実にこれは近いうち直面する、とても大きな問題なのだと思う。



 どうやら現実の日本人は昔から繋ぐことが得意でないらしい。(木村英紀)

 理由として著者は「職人好き」「単体好き」「情緒や感情に動かされやすい」という特徴を述べる。
 個別的な理由は、日本人の長所そして和文化といわれるものにも結びつくことだが、それらはある意味で閉鎖的であったからこそ花開いたとも考えられる。

 システム思考の欠如ということは容易い。
 それはなぜかと考えて、著者が指摘するこの日本人の性向は、なるほどと思わざるを得なかった。


 ものごとをその背後にある大きなシステムの枠で捉えるよりも、特定の個人や組織に起こった具体的な事実の方に関心が向くのである。(木村英紀)

 同じ仕事を三十数年も続けていれば、「大きなシステムの枠で捉える」ことはできる。
 しかし、その改善についてはまったくの無力感を積み重ねているし、多分にシステムが背負っていることによって引き起こされる「具体的な事実」にあたふたしているだけなのである。

そうか、君も同い年だったか

2015年06月04日 | 雑記帳
 勢いでそんなふうに書いてしまったが、「君」と呼べるほど親しいわけでもないし、君は僕のことなど知らない。しかし僕にとって君は、その存在を知ったときから常々気になっていた。それゆえか、直接君と共に暮らそうとはせず、ライバルと目されるものを手元に置いたりしたんだ…と、ずいぶん引っ張ってみた。


 岩波書店『波』の今月号は「特集 広辞苑刊行60年」である。1955年に刊行され、累計1100万部であるそうな。職場等では手にしていたが、個人としては購入していなかった。もっとも電子辞書に入っているから、三つはあるか。ほぼ毎日使っているから、ずいぶんと付き合いは長いわけだ。執筆者たちも同様だ。


 6名が各々の思い出や思いを語っている。鈴木敏夫は「広辞苑の御利益」という題で、「持っているだけで安心する」と書く。この感覚はわかる。昔、無人島へ持っていく一冊は国語辞典だろうなと考えていた。言語や知識に対する憧れなのだろうなと思う。小島慶子の「コウジと私」も、その手の愛着を述べている。


 マイク・モラスキ―なる日本文化研究者は、「『国語辞典』という問題」と題した。読む前に、「問題」とは「国語」ということだなと予想したら案の定だった。加えて「英和」「和英」「漢和」「古語」と並べて比較すると「国語辞典」という特殊さにも気づいてしまう。つまり国語とはどこまでが範囲なのかという問題だ。


 6人目は話題のピース又吉直樹。「広辞苑の予言」という題で、自分との関わりを、一つの物語のように仕上げた。売れずに何も買えない時期に広辞苑を買った又吉は「広辞苑は自分と言葉の距離を近付けてくれる」と書く。自分の妄想を、広辞苑によって事実と照らし合わせていくような作業をしているのではないか。

好意性のわからぬ私へ

2015年06月03日 | 雑記帳
 指導案検討会で目にした指導案に、見慣れない言葉を見つけた。「好意性」。見慣れないというより、初めて目にしたと思う。使われ方は好き嫌いの人数分布である。検討の本筋から外れるのでその場では口にしなかったが、終わった後に詳しい職員に訊ねてみた。すると体育科の指導案では見かける表現であるらしい。


 まず、辞書を調べてみる。「好意性」そのものはない。次にネットで検索をかけてみた。「好意性」そのままの言葉では1ページ目ではヒットしない。「好意性 文科省 体育」ではどうか。一つだけ体育関係のadf文書が見つかった。それ以外のいわゆる公的文書にはないようだ。もう一度「好意性」だけで検索してみた。


 2ページ目に「好意性とは」とずばりそのままが出ているではないか。おおうっと思って開いてみると…。どうもこれが心理学用語的な解説で、最初の検索で多く出てくる「好意の返報性」などと関連を持っている文章のようだ。どうも「好き嫌い調査、分布」とはあんまり結び付かないような気がする。再び辞書へ。


 「好意」の意味は②「好きな気持ち。親愛感」ということだ。とすれば「性」がポイント。複数ある意味の中では②「物事のたち・傾向」ということか。例語として「性能・急性・酸性・可能性」がある。可能性をもとにすれば「度合」という意味も導きだせるはずで、好意の傾向、度合であればこの熟語は成り立つ。


 では「好意度」では駄目なのか。「好感度」だったらよく使うが、跳び箱運動の好感度でもなかろう。かといって好意性が的確だとも言われない気がする。ラーメンの好意性やイチローの好意性ではピンとこない。最後に類語辞典。候補として「好み」「好尚」「趣味」「好悪」。いずれもずれる。「好意度」が合うと思うが。

 (好意度は検索でヒットした。主として広告用語らしい)

伴走者の見る風景

2015年06月02日 | 読書
 【2015読了】51冊目 ★★★
 『いつもいいことさがし』(細谷亮太 暮しの手帖社)


 副題は「小児科医が見た日本の子どもたちとおとなたち」。
 聖路加国際病院副院長という肩書を持ち、文筆家、俳人としての顔もあるらしい。
 押しつけがましさを感じない文章から、人柄が想像できる。
 今、小児科が置かれている現状を時々見聞きしたりするが、こうした本の普及によって何かしら改善がされるとすればいいなあと願う。

 いくつか提言めいた文章をメモしておく。同じ子どもを対象とする仕事につく者として、心に留めたい考えである。

 P53 好き嫌いをなくすこともとても大切なことですが、それよりも、その日の給食で食べるものについて、何か子どもたちに語りかけようとしてもらえば…

 「この○○、大好きなんだよ」「昔の△△は、こういう味しなかったなあ」などという声が出される教室は、今どれほどあるだろうか。自分もそんな言い方はできなかった。
 しかし「食」の場面こそ、人間味が出てくることは本当だと思う。


 P60 戦後の教育のなかで、あまりに画一的にチャレンジ文化を教え込まれた私たちに、今、伝統のあきらめの文化を見なおすべきときが訪れているように思えてならないのです。

 「あきらめの文化」とは、深いところを考えさせてくれる。
 分を弁えて、分相応、という言葉をよい響きととらえることも可能だ。しかし具体的に何をあきらめて、どうするかは、


 P96 日本人は自分の意見を言わないというのが、今までの定評でした。でも人の話をいっぱい聞いて、自分なりに「物語る」下地ができていたのです。

 「聞く」という行為が、意義づけ意味付けのために有効な働きをするものだと知らされる。そして、物語る内容と関わらせる方法について、もっと細かく明らかにすることが大事であると気づかされる。


 小児科医は、時に難病の子の伴走者であり続けなければならない。
 小児がんの専門家である著者は、その体験が豊富だ。
 伴走者とは、常に対象に寄り添うべき精神と体力を持ってなければならない。その著者が昨今の「おとなと子ども」を見て、こう断じていることは重く受け止めなければならない。

 P257 昔からおとなと子どもの暮している空間と時間には重なる部分がたくさんありました。しかし区別されている部分もきちんと存在していたはずです。現代の日本ほど全く同じ情報にさらされながら、同じ時間をおとなと子どもが過ごしているところは世界中探してもいないと言ってもいいと思います。

五月、しまいに揺さぶられる

2015年06月01日 | 雑記帳
 好天続きはよかったと思うが、これほど気温が高かった五月はかつてなかったのではないか。ここ数年、春や秋が極端に短くなってきたようで、なんとなく亜熱帯傾向が実感されたようなひと月だった。連休後は慌ただしく過ごした気がする。残念ながら仕事に追われているモードであり、処理的な脳の使い方だった。


 転任してきた昨年度より、忙しさは70,80%アップだろうか。本来なら流れもわかって余裕が出るはずなのに…。学校を取り巻く外的要素?があまりに多く負担感が増している。こういう中で学んだ教訓は「早く手をつける」こと。とにかく勢いでやれるところまでやってしまうと、締切が迫ってもそんなに慌てない。


 では、ゆとりはなかったのかというと、そういうわけでもない。月半ばまでは山菜とりにも出かけたし、同期会DVD作成も進んだし、月末は毎回参加している復興イベントにも足を運んだ。それなりの「収穫」はあったのだ。特に先週末は「初めて」知ったこと、食べたものがあった。結構心を揺さぶられたなあ。


 今、遠洋漁業では、外国人などを雇い船だけを漁場付近に移動させ、漁師たちは飛行機で行くという話はびっくりした。もちろん全部が全部ではないだろうが、調べたら確かにその例は載っていた。これはある面の合理化に違いない。第一次産業の仕事の持つイメージは明らかに変わりつつある。食卓の背景は深い。


 「サメの心臓」を初めて食べた。「モウカの星」と名付けられた食物は、酢味噌もあうが、にんにく醤油でも結構イケる。サメに限らず、心臓を食べて強くなった気でいるのは人間だけか。シャークミュージアムで「サメより怖いのはだれ?めくってみよう」コーナーがあり、めくると「鏡」があるのは、納得の正解だ。