すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

今の自分の問題意識を

2015年08月21日 | 教育ノート
 二学期に向けての職員会議。
 いつものようにレジュメは作るが、学期当初として経営の重点、もう一押ししたいことを確認しなければいけない。
 自分に問うて、出てきたことは次の二つである。
 これらが今の自分の問題意識というわけだ。

 最初は、一学期末に読んだ本の中から、一部抜粋(要約あり)である。


◆『ハーバードの人生を変える授業』(だいわ文庫)より
 
 組織行動学の第一人者であるリチャード・ハックマン教授は『効率的なチームワークは、ゴールが明確で優秀な人材の環境下に生まれる』と説いており、そこに学んだエドモンドソン(現ハーバード・ビジネススクール教授)は、そんな効率的なチームワークを発揮している医療チームでは、ミスは少なくなるだろうという仮説を立ててリサーチを行いました。
 しかし、リサーチの結果は驚くべきものとなりました。
 ハックマンの説く「効率性の条件」を満たす医療チームの中では、ミスが少ないところか、他のチームより多くのミスが起きていたのです。
 これは何十年にも及ぶ研究と矛盾するものでした。一体何が起こっているのか。どうしてこんなことになったのか。エドモンドソンは悩みました。
 しかし、しばらくして、その原因がわかりました。
 チームワークのいいチームは「            」のです。
              
 かぎかっこの下線部は少し間をおいてから、話す形とした。
 あえて、書かないでおこう。


 次は経営計画の文章を引用して、教育目標である「ぜんしん」で、今改めて強調したいことを念押しする形で書いた。
 具体的に活動化するために例示(ぜひ実行してほしいこととして)も付けてみた。


◆本校経営計画の文章より

 「全身」は、たくましくしなやかな身体づくりを通して、将来にわたっての健康維持や安全確保に資するということはもちろん、「学びの身体化」「身体をつかった学び」という面も伏せており、小学校教育のもつ教育的意義に強く関わり合っている                   
 具体的には
 ◇もっと授業の場で「音読」を   
 ◇「表現」をゴールに設定する単元づくりを
 ◇家庭学習や校外等における活動との計画的な連携を


 小学校教員である以上、日常的に行っているだろうけれど、もっともっと自覚的でありたい。

膨張するフツーのなかで

2015年08月20日 | 雑記帳
 木皿泉(夫婦ユニット名らしい)という脚本家が新潮社の『波』に連載していて、その一節に次のような文章があった。

 このへんに子供の頃、住んでいた。
 何もないフツ―の街だったのに、何でもある街になってしまった。
 何でもあるということが、なぜか少しさみしい。


 涼しい風のような共感の気持ちがわいた。

 「何でもある」ことが「さみしい」と結びつくことを、物質的な豊かさと精神的な貧しさで語ることは、ありふれている。
 しかし、もう一つ掘り下げてみることもできる気がする。

 とすれば「フツ―」であろう。
 「何もない」ことがフツ―であったのに、「何でもある」ことがフツ―になってしまったのだ。
 そしてまた、書き手が思うフツ―が、世のフツ―と食い違ってきたという見方もできる。

 きっと「何もない」時代には、自分のいる場所をフツ―と思ってはいなかった。
 何がフツ―が分からなかった。
 目の前の物事が変化し、「何でもある」ことがフツ―になってくると共に、これはフツ―じゃないと思い始めたのではないか。
 「何もない」ことの方がフツ―だったのではないか、と考え始めたのではないか。

 それは、きわめて個人的な感傷めいた思いに過ぎない。

 現実にはフツ―が膨張していて、当然ながらそれとともに多くの個のフツ―も膨張している。

 そういう世の中で、一緒に膨らまないフツーを抱える人は、さみしさを感じるものだ。

 何もない時はフツ―に留まっていられたのに、何でもある場ではフツ―に背を背けたくなる、単なるへそ曲がり的発想もあるかもしれない。
 もしかしたら、少し怒りも感じているかもしれない。

 さみしさも怒りもなだめながら、「何」にとらわれず、これが「フツ―」ですと言える境地に立ちたいものだ。

 そんなこと言っていたら「フツ―」と言っても、「不通」の人と見られるかもしれない。



一分を生きる連続で

2015年08月19日 | 読書
 【2015読了】82冊目 ★★
 『悩みと縁のない生き方 「日々是好日」経』(アルボムッレ・スマナサ―ラ  サンガ)

 仏教徒ではないが、たまにはこうした本に触れてみたいという気持ちが湧く。年に2,3冊は読んでいる気がする。それが続いていること自体が煩悩から抜け出せない証拠だろう。さて、まずは自らの間違いに気づく、「日々」を「ひび」と読んでいたがこれは「にちにち」であるということ。それだけでも価値があった。


 「日日是好日」経の経典の冒頭が、この本の基になっている。「過去をおいゆくことなく また未来を願いゆくことなし/過去はすでに過ぎ去りしもの 未来は未だ来ぬものゆえに」。つまり、過去に足を引っぱられることなく、将来・未来を気にすることなく生きる、それはいかに「現在」に集中できるかということだ。


 そのために発せられた問いかけは考えさせられる。「どれぐらいの時間が『現在』になるのでしょうか」…厳密にいえば、「今」という言葉はそれを口にした瞬間に過去になるわけだが、生きていく時間として「今」をどの程度に設定するかは興味深いことだ。筆者は「『現在』の時間が短いほど成功する」と説いている。


 さらに「俗世間のみなさんは、自分の『今』を『一分』と思ってみてはいかがでしょうか」と提案する。この一分をどう過ごすか、目の前に起こることを一分で解決していく…刹那的に思えるかもしれないが、妙に説得力もある。現実には風邪の頭痛が一分で解決するわけではないが、どう対応するかで、答えは出る。


 一分を生きる連続で過ごす発想は、情報過多過密の世界にあって有効なのかもしれない。ただ本書にある「仏教の性格論」で、自分は「思考型」(何でも複雑にゴチャゴチャ考えて行動するタイプ)らしい。変えられないその現実からは、過去を足枷にせず未来に縛られず目の前の現在を生きる困難さが見える。

持つことで見えてくる…か

2015年08月18日 | 雑記帳
 ぼんやり見てた録画番組の一つにNHKの課外授業「ようこそ先輩」があった。その回は映画監督の是枝裕和氏だった。関心を寄せている一人であり、作品も興味を持って見ている。六年生の学級でグループごとにテーマを決めさせ、ビデオを預けて撮影させ、作品に仕上げるという流れだった。淡々とした構成だった。


 ひとつなるほどと思ったことがある。「カメラを持つことで見えてくることがある」という働きかけだ。これは、多くの人が納得するのではないか。シャッターチャンスという言葉…それを待つということは、自分の美意識との接点を探すということだ。授業としてはテーマを掲げれば共通化しやすいし、動きは作れる。


 さて、学校広報のために一日のうちカメラを持つ頻度は非常に多いが、個人としてのスナップなどはさっぱり御無沙汰。もう三ヶ月も更新なしのフォトブログとなった。デジカメの撮りやすさが、逆に視点を弱くしているか。とりあえずデータを見直し、いくつかピックアップした。「持つことで見え」たこともある。




休日の映像小僧満喫

2015年08月17日 | 雑記帳
 成人式への列席や盆踊りカード配布等あったが、結構まとまった休みとなったお盆だった。読書はそこそこで、今回は録りためたテレビ番組をごろりと横になって見ることが多かった。ドラマやお笑い好きの自分にとっては実にリラックスできる時間。と同時にちょっとした発見もあり、改めて映像小僧だなと思った。


 再放送ドラマ録画を見続けた。『東京DOGS』と『流星の絆』。2008~2009年頃の放送である。『東京~』はスーちゃんこと田中好子の最後の連ドラ出演だった。今見ても両作品の合間に入るギャグっぽい応酬が秀逸だ。『流星~』はクドカンなので当然か。またどちらもムロツヨシ(笑)がチョイ役で登場している。


 『オモクリ監督』もいくつか見た。ショートムービーの他に新コーナーが出来ていた。「日本県別、勝手に応援歌バトル」…これは4月から始まっていて、なんと名誉ある?第一回目は秋田県。実に面白かった。どぶろっく、エハラマサヒロ、秋山竜次の三組。誰か取り込む企画者は県内にいないか。保存版にしたい。


 映画『永遠の0』もようやく視聴した。さすがにテレビドラマ版よりは締まりがあった。冒頭部分を見逃したが15日夜のNHK『カラーでみる太平洋戦争』は惹きつけられた。白黒に比べて臨場感がこれほど違うものかと思った。当時の人間が立ち上がってくるドキュメンタリー映像の迫力を見せつけられた気がした。


 『相棒13』シリーズ後半を今まで見ていなかった。続けてみたら、なんと最終回の結末が…、結構話題にもなったらしい。シリーズの流れとしてはやはり唐突だった。しかしたぶん結論は、甲斐次長の「杉下君、君は、君が思っているよりずいぶん危険な人物だ」という台詞だ。結局杉下右京万歳!というオチなのだ。

休日の脈絡なき読書

2015年08月16日 | 読書
 お盆休み、まったく脈絡のない読書ラインナップだ。


 【2015読了】79冊目 ★
 『動物記』(高橋源一郎 河出書房新社)

 この作家の書く小説は何冊も読んでいないけれど、どれも理解度3割未満という形で読了する。たぶん設定を理解する基礎知識が足りないのかなと思う。
 ただ一つ言えるのは、いつも現実世界を象徴させる物語を書いているだろうということ。
 だからこの小説は「動物記」という名の「人間記」である。
 もしくは動物にコミットしたいけれど、できずに暮らしている人間の喘ぎのようなものだ。
 自分も似ている。


 【2015読了】80冊目 ★★★
 『マンガでわかる魔法のほめ方 PT』(横山浩之 小学館)

 著者ご自身から直接いただいた。
 内容については、雑誌記事などで見ていたので知っていたことも多い。しかしストーリーマンガを挟みながらポイントが的確に示されており、改めてPT(ペアレントトレーニング)の内容を知ることができた。
 特別講座としての「子ども集団に対するPTの応用」は、まさに教職員へ向けられたもの。参考になる。
 そして初めて知った「自己耐用感」という用語。自己有用感は最終的にそこに結び付けたいと思ってしまうのは、やはり教師的な発想かなと少し苦笑する。
 

 【2015読了】81冊目 ★★
 『無頼のススメ』(伊集院静 新潮新書)

 この新書もある程度は予測できる内容だった。
 いくつかメモしておきたいことはあるが、とりあえず戦後70年の関する報道が渦巻くなかで、この「無頼派」作家がこんなふうに書いていることも残しておこう。

 歴史をどう見るかという視点で言うなら、戦争に巻き込まれた人にとって戦争は終わっていないし、巻き込まれた人が子どもや孫に伝える限り、その戦争は終わらない。
 それが国家として背負わざるを得ない歴史というものであって、だからこそどの国も謝り続けるのだ。

名付けて飼い慣らせばいい

2015年08月15日 | 雑記帳
 8月に入った頃だった。右目の前を小さな虫が飛んでいるような気がした。眼鏡を吹いて、目の周囲をタオルで拭いたり、目薬を差してみたり…。鏡を覗いて異常がないか確かめたが…。これはもしや、目の前を蚊が飛ぶように見える症状、たしか「飛蚊症」と言ったような気がして、ネットを使って検索してみた。


 ズバリだった。例示されてる画面ほど、多数飛んでいるわけではないが、明らかにこの症状だ。しかも目の老化的なことが原因で、治しようもないことが書いている。近視乱視ということもあるし、目の前に何かチラチラするのがとても嫌で、車の前方に何か吊るしたりすることなど絶対しない。ちょっとショックだ。


 夕食時、家族に訊いてみる。「あれ、あの目の前を蚊が飛んでいるような感じ…飛蚊症って言うんだっけ。それになってしまったみたいだ」と口を開くと、連れ合いだけでなく、娘までが「私もあるある」「昔からある」と当然のような発言。さらに衝撃的な言葉が発せられる。「私なんか、その蚊に名前つけてるよ


 ええええっ、我が連れ合いは時折想像もできないことを口にするので、少し慣れているが、これには参った。たぶん網膜?の異常が引き起こした線状の物理的な動き(の比喩)について、名前を付けているとは…。いったいどんな名前だというのか、怖くて訊くことができなかった。ただ雄か雌かぐらいは知りたい。


 その晩寝床に入り、名付けの発想が結構面白いと思うようになった。見る対象に集中していれば、あまり気にならない「蚊」なのである。つまり、目障りになる目前のことは、名付けてしまい飼い慣らせばいい。消すことは無理でも、重要ではないものは意識しない。見るべきものは、その先にあると教えてくれる。

教育の目標のシフト

2015年08月14日 | 読書
 『最終講義 生き延びるための七講』(内田樹・文春文庫)には文庫版付録として昨年末の講演記録が付けられていた。演題は「共生する作法」。「共生」は生き延びるためのキーワードだが、能力やコミュニケーションの仕方などの「自分の問題」としてではなく、集団の「仕組み」の問題とすることが筆者の考えだ。


 この講演には、教育に関する筆者の知見が色濃く出ている。まず、難民キャンプを例として、集団に発生する優先順位を次のようにした。「祈り(弔い)」「裁き」「癒し(医療)」そして「学び」つまり教育である。学校教育とは個に向けられるというより「集団の存続」のためにある意味を、もっと噛みしめてみたい。


 筆者自身が教員評価システムを推進した立場で、反省をしながら結論を述べている。曰く「教育という事業の成果は、教員個人個人について計測するものではなくて、教師たちの集合体、ファカルティを単位にして見なければならない」…初等教育の場合、これは単年度的、単独校的な立場でしてはいけないと気づいた。


 痛快なのは「『グローバル人材』は誰のために必要なのか」という章である。言われてみればもっともだが、グローバル人材とは入替可能な人材のことだ。「いなくなっても誰も困らない人間」と筆者は言う。世界で活躍できる、英語やPCが堪能で、タフでどこにも飛んでいける…私たちはそういう人材を育てたいのか。


 「周りの人から『あなたがいなくなっては困る』と言われるような人」という実に味わい深い表現で、「成熟した市民」の姿を描いている。自分の周辺にも、そういう佇まいを見せている人が数多くいる。地域社会の存続はそうした人に支えられているし、教育の目標はもっとそのつながりにシフトしていいと思った。

生き延びる教育には

2015年08月13日 | 読書
 【2015読了】77冊目 ★★★
 『最終講義 生き延びるための七講』(内田樹 文春文庫)


 大学教授退官を前にした時点での講義録。先週少し書いた「身銭」という言葉が、ここでも出てきた。テクストの読み方についてこう述べている。「身銭を切ったものだけが、切った身銭の分を、あるいはそれ以上を、テクストから取り出すことができる」…自分から動く、全身を投じてみる、そうした学びのあり方だ。


 大学教員応募に何度も落ちた経験を語りながら、こんなふうに語る。「『問題児枠』とか、『バカ枠』とか、秀才とは別枠でとってくれたっていいじゃないか」これはある意味で様々な組織体にも同様に言えることではないだろうか。標準化・規格化している成員による組織がどんな末路をたどるか、歴史が証明している。


 特に怖いのは教育に関わる組織である。同じ方を向き、同じような指導の仕方をすることの異常性は誰しも感じながら、知らず知らずのうちにそうした路線に近づいていることに危機感を持つ。個性、多様性と言いながら、現場を縛り付けてきていることは、教員採用に関わることや免許更新制を振り返れば顕著だ。


 「学校には『謎』や『暗がり』がなければならない」という言葉は素敵だ。学校は常に明解であり、一貫した指導方針の下、きちんと説明責任を果たす姿が求められている。自分もそんなふうに努めているのだが、子どもが学ぶ、育つ場はけして陽の当たる場だけではないという思いもある。意図的な振舞も必要か。


 学校現場の教員世代がどんな価値観を持っているかも検討に値すると改めて思った。自分のような高度成長期に小・中時代を過ごした者が最上部とすると、その下の世代には、量から質への転換があった。消費至上主義に染められた面は残るにしろ、「生き延びる」教育を考えた時、よりしたたかであるとは言えまいか。

貴方の鍵は何処と問う

2015年08月12日 | 読書
 【2015読了】76冊目 ★★
 『鍵のない夢を見る』(辻村深月 文春文庫)


 旅のお供の文庫本。初めて読む作家である。帯にあった「第14回直木賞受賞作」に釣られて手にとった。5編いずれも女性が主人公の作品が収められている。ううむ、確かに文章は上手だと思うのだが、書き込まれている女性心理に少しくどさを感じ、それから理解しきれないもどかしさも感じ…ううむであった。


 最初の「仁志野町の泥棒」。久しぶりに見かけた小学校時代の同級生について語られる。盗癖のある母親と暮らす同級生との出来事は、うまく描かれていると思う。高校生になってからの再会の成り行きは、作為めいているのか自然なのかわからないままだが、不都合な記憶が仕舞いこまれる人間の悲しさだけは感じた。


 その後の「~放火」や「~殺人」を扱う作品は、主人公が直接罪を犯す形ではないが、そこに深く関わる女性の心理が繰り返し深層に入っていく。その過程はドラマなどでありがちではあるが、とことん嵌ってしまうパターンが見えて、おいおいとツッコミたくなり、最終作の「~誘拐」は冒頭から結末が予想できた。


 「~誘拐」は案の定思った通り展開した。5編の共通性は、巻末の林真理子との対談にあるように「閉塞感」のようだ。主人公の置かれた立場が決まっていて、そこに閉塞感があり、事件が絡んでくると、その時の女性の心理はこう動くという教科書みたいなものだろうか。もちろん直木賞受賞作だから文章はうまい。


 題名『鍵のない夢を見る』は作品名ではないが秀逸な言葉だ。「閉塞感」をテーマと考えた時、実に象徴的である。自分が持っている鍵を失くした夢を見た、夢につながる鍵を自分が持ち合わせていない、夢自体に鍵となるものが全く無い…鍵という比喩によって、自らの位置が確かめられる。改めて考えると凄い題名だ。