すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

自由問答・壱

2017年02月17日 | 雑記帳
 「自由ってナンだろ」とまるで中学生でも考えそうなことだ。でもある意味自由の身?である今、そんなことをつらつらと考えるのもいいじゃないかと思い、キーボードを叩くままに、書き散らしてみたい。「少しずつ前進」というのが直近で得た「自由獲得方法」の箴言の一つ。あちこちに目を移しつつも一歩ずつ進む。



 まずは「自由」という言葉で思い浮かぶこと…自由民主党、吉田拓郎の唄、仕事をしていた頃の子どものやりとり、水泳の自由形、「自由と規律」という名著、「自由人」と書いた駄文…もちろん、まだまだある。政党はともかくまずは吉田拓郎から。高校生の自分がなんとなく自由の象徴に思えたフォークシンガーだ。


 大好きなアルバム「今はまだ人生を語らず」の中の一曲『知識』にこんな歌詞がある。

♪自由を語るな不自由な顔で
 君は若いと言うつもりかい
 年功序列は古いなどと
 かんばんばかりの知識人よ♪



 「不自由な顔」は何を物語っているか。拓郎は、世間に対すると同時に自分自身も揶揄していただろう。自由の反対語は不自由であるが、対義語となると、代表的なのは「束縛」「支配」になる。つまり、この唄は「自分が何に支配されているのか早く気づけ!このバカちんがあ(金八先生風)」という表現なのである。

まさに「鎖国問題」

2017年02月16日 | 読書
 だからといって「日本は、鎖国していなかったんだなあ」という心になるかというと、簡単ではない。例の学習指導要領のことである。なんとなく、坂本龍馬の輝きも薄れるようではないか、大河ドラマで育った年代としては腑に落ちない。変更の背景を注視したい。その点はさておき、たまたまこの本を読んでいた。

2017読了17
『ライフワークの思想』(外山滋比古  ちくま文庫)

 一番古い論考はもう40年近く前で、話題の一つに「中学校の英語科時数削減」という問題があり、歴史を感じさせる。それでも稀代の知識人の筆は、本質的な指摘にあふれていた。一番頷きながら読んだのは第三章「島国考」。まさに「鎖国問題」そのものである。用語がなくなったとしても、下記の文章の論理は的確だ。

 島国には鎖国への傾斜がある。日本は長期間にわたる鎖国を実施した歴史をもっており、鎖国が文化的精神にとどまらず、政治、経済的にも及ぶことを実証している。(P158)




 地理条件によって外国及び外国人に対する過敏さが生ずるし、模倣あるいは拒否等、心理的に不安定な国民性がつくられた。それは多数の外国人観光客等を目にする現在もあまり変わらない、と思える。「鎖国」をしていた間は「戦争」がなかったことを考えれば、ある面で、今は「小さな疑似戦争状態」とも言えるか。


 EU離脱を決めたイギリス(島国)やトランプ政権誕生によって、新たな揺れが生じているが、流動的な社会に歯止めをかけることなどできない。しかし、「鎖国」の用語が消えゆくのは仕方ないにしろ、だからこそ鎖国によって花開き、守り継がれる数々の文化に目を向け「日本」を維持しないと、みんな呑み込まれる。

自動化、量産化に背いて

2017年02月14日 | 読書
「体は棺桶の中に入ってても、魂は、シュウちゃんのところに行くからよ」

2017読了16
『峠うどん物語(下)』(重松 清  講談社文庫)



 上巻同様、連作短編の形をとっているが、下巻は作ごとの関連が少し強くなっている。うどん職人の祖父に関わる人物が複数登場し、祖父の姿がより鮮明になると言ってもいいだろう。一途に仕事を続けてきた者には必ず矜持があり、その魂を見失わず全うし続ける重みが伝わってくる。「導き」という言葉が浮かぶ。


 上巻には「軽食設定」という趣を書いた。下巻を読了すると、ちょっと質が違ってくる。一杯のうどんが持つ温かさ、陳腐な表現だが、その一杯には「葬」と向き合った心を解す力がある。「斎場のすぐ近くにある小さなうどん屋」を舞台にすると、それだけを作者は書き出す前から決めた。その設定で人が動くのだ。


 物語の中に込められている作者の社会批評的な目がひしひしと感じられた。斎場に大型店のチャーターするバスが行き交うようになったこと、個人医院と大型病院における終末期医療の問題など、私達の身近にもある現象が、一種の仕組みのようにして現れてくる。生死の問題までシステム化が浸透している社会だ。


 「あとがき」に、この話が小説誌への不定期連載という形で書かれ、全篇完結に五年半かかったと記されている。こんな連作は初めてで、今後もないだろうとあった。それだけの時間を費やしたのは、手打ちのうどん屋商売とも似ている。つまりはそこでしか出せないもの、自動化、量産化への抵抗であると見たい。

妄想の発想、滅相な連想

2017年02月13日 | 雑記帳
 TBS系ドラマが一季節遅れで放送されている。話題になった『逃げ恥』である。なかなか面白い。さて最近の他のドラマでも感じるのだが、この頃の特徴に「妄想」を映像化してみせる手法がある。以前からあるにはあった。しかし、これだけ頻度が増すと少し落ち着かない。漫画原作が多いので、コマ的な発想か。


 「アドラー心理学会がフジテレビに抗議」という記事が目に付いた。例の『嫌われる勇気』という刑事ドラマだなと思った。第一話だけ見たが、配役や脚本に興味が持てないので止めた。内容に関して詳しくわからないが、こうなったら不振のフジは、パクリやデフォルメを徹底する「嫌われる勇気」を持ったらいい。


 NHKプロフェッショナルに倉本聰が登場した。ドラマの人物について「履歴書」を作ることは、以前から知っていたが、かの『北の国から』で、黒板五郎が若い時に複数の娘を妊娠させたとあるのは傑作だった。その度に五郎の親がカボチャを持って謝りに行ったことが、有名なあのシーンにつながっていたとは…!



 「月曜から夜ふかし」の再放送があった。秋田関連が取り上げられていたからだ。去年その番組を見てこんな雑文を…。基本的な認識は一年前と変わらないが「なまはげの後継者不足」は、なまはげ的な者の需要不足とも言えるし、「高校生のコートなし」は見かけが心の横並びを助長するのでは…と不安な連想が廻った。

如月新書乱読記

2017年02月12日 | 読書
 小説読みが続いたので、箸休め?として新書乱読記である。


2017読了13
『自律神経を整える「あきらめる」健康法』(小林弘幸  角川oneテーマ21)

 中味はよくある健康本と変わり映えしない。自律神経とくればストレスだから、「あきらめる」ことは容易に思いつく。だから、様々なことをあきらめなさいと言っているに過ぎない。しかしそう思いつつあきらめられないのが普通の人間。だから価値があるとすれば、あきらめる「コツ」「技術」…それらに注目した。

 まず「呼吸」…これは多くの類書にある。次に「動作」…速度を緩やかにし、息と連動させる。さらに「あきらめリスト」…やりたいリストと正反対の思考、あり得るだろう。そして一番興味深いのは「文字を丁寧に書く」…キーボード生活は、あきらめる生活とは結びつかないか。難しいなあ。あきらめようか…何を?


2017読了14
『アホの壁』(筒井康隆  新潮新書)

 『バカの壁』の読者は多いはずだが、これはどのくらい読まれただろうか。私自身、2011年発刊のこの著の存在すら知らなかった。しかし、なんと言っても我が少年期の読書を支えたこの筆者。面白くないはずがない。この壁は、コミュニケーション阻害の壁ではなく、「良識とアホの間にたちはだかる壁」であった。

 前半は「いわゆる俗流科学」に基づいた、アホな言動についての心理分析が多い。個人的に気に入ったのは「焦点的自殺」という考え。怪我やある種の病気、肉体に関する性癖などは一種の自己破壊であると考えると、妙に納得がいく。国家のアホな行為については「同種既存の本能」という興味深い結論を導き出した。



2017読了15
『装丁問答』(長友啓典  朝日新書)

 本の装丁は、魅力に溢れている。素人が考えるほど安易な仕事ではないと承知している。また、電子書籍の普及などでその意味が変化していることも少し残念だ。結局、こうした編集に関わる仕事が徐々に分業化、システム化が進んでいることを痛感する。その傾向がいろんな仕事に波及している現実を考えてしまう。

 長い間、業界の第一人者として、デザインの仕事を楽しがり面白がってきた著者が、多くの装丁を紹介しながら、本の愛し方について述べている。なにしろ本の「ジャケ買い」をする人なのだから。「ジャケ買い」という言葉は世代的にレコードの頃と重なり、いくつかのLPジャケットが思い浮かぶ。いつか書きたい。

「建」…まっすぐに堂々と歩く

2017年02月11日 | 雑記帳
 土曜日なので、なんとなく祝日気分が薄れているようだが、今日は「建国記念の日」。暦を見て気になったのが「建国」の二文字だ。「建」という漢字を使う他の熟語ってあまり思い浮かばない。建国はあるが、建県、建市なんていうのは聞いたことがない。建設、建立、建材などあとは実際に建築するものばかりだ。


 漢和辞典では「建〇」の見出しは16個だった。「建議」「建白」を除くと、やはりモノを建てること関連である。何故「国」だけなのか。『常用字解』の建の項目を見ると、儀礼的な意味が大きい。実際に建物をつくって都の位置を定め、「建国(新しく国をつくる)」されるという記述がある。初めに中心ありきなのである。



 字解では別だが、一般的に「建」は会意文字であり、「聿」(筆をまっすぐ立てる)と「廴」(すすむ)の組み合わせから出来ている。従って「体をまっすぐにたてて堂々と歩くこと」を表している(大漢和辞典)。そこからしっかりとたてるとの意になったようだ。実に清々しいというか、しゃっきりしたイメージがある。


 何がこの国の基本なのか明確にしないと、なかなか真の意味で「建国」は難しい。どの部分で共通理解を持てるのかも、議論が分かれる。それを世界はけして鷹揚と待っていてはくれない。だからと言ってジタバタしないこともこの国の流儀ではなかったか。浅学な頭でも、国難を乗り越えてきた歴史は知っている。

砂漠のような世界で目を凝らす

2017年02月10日 | 読書
Volume39

「『日本人はどう生きるべきか?』とか、議論しても絶対に正解が出ないでしょう。けれど、そんなことを考えても役に立たないと言って、だれも考えなくなった世界は最悪ですよ。実際、そうやってさまざまな議論を切り捨てていった先に、『保育園落ちた日本死ね!!!』という叫びだけが力をもつような砂漠のような世界が訪れてしまった。今の日本の言論状況は、そういう点で決定的に貧しいものになっている。」

 自ら編んでいる批評誌『ゲンロン』の発刊意義について、東浩紀がネット上のインタビューに応えて語ったこと。

 考える意義、話し合う意義を誰しも否定はしないだろう。
 しかし、目の前の問題ばかりに心を奪われ、「役に立つ」ことばかりに頼って暮らしてはいないか。
 広い世界、長い歴史はどこか一種のフィクションのように感じてしまってはいないか。

 少し落ち着いて考えると想像できる。
 振り返ったときには、壊されたものばかりが目立つ風景が広がっていて、ちょっと遠くに目をやれば、その先は砂地がえんえんと続くように見えたりして…。



 「保育園落ちた日本死ね」だけが取り上げられたが、実はその「叫び」には全体の文章があり、世界と歴史につながっている。
 結局、表現のインパクトの強さだけが、本人とは違う誰かの文脈のなかで利用されたに過ぎない。
 注意深く、目を凝らす習慣を身につけたい。

 子どもの躾というごく身近な悩みであっても、それを救ってくれるのは本当に「役立つ情報」だろうか。
 どう在るべきかがふだんに語られている環境が、子どもに役立つかどうかはわからないが、その方が確実に豊かで強い育ちの支えになると信じている。

トランプゲームにかだるな

2017年02月09日 | 雑記帳
 「藤原正彦×阿川佐和子」という名に惹かれて、深夜のBS日テレ「深層NEWS」という番組を観た(もちろん録画)。「トランプ時代の生き方」と題された内容は、多くの人の感じている「不安」へどう向き合うか、いかにも二人らしい明快なコメントが拾えた。「振りまわされるな、チャンスだ」が結論と言える。



 藤原教授は独特の口調で、今まで繰り返し語ってきた、日本が古来より築き上げてきた情的価値の再興を強調した。最終的に幼児期から徹底的に卑怯な振舞について躾けることこそ肝要と説く。しかしそこが一番難しい。連日報道されるおエライ方々の卑怯な振舞、そしてそれに麻痺している我々にどこまで可能か。


 阿川さんがある陶芸家を例に話したことが印象的だ。450年もの伝統を引き継ぐその窯元では、今使われている土は曽祖父が集めたものだと言う。現当主もそれに倣い、何代か先のために土を集めている。「半径3メートル、来週のこと」だけに幸せを見出そうとしている、私たちの未成熟な意識が問われているだろう。


 トランプ大統領の戦略的言動や移民排斥を進める主たる層、そして経済を縛っている企業決算の在り方について、納得する情報があり知識の有用性を感じた。しかし、キャッチ―な言葉を乱用するメディアに振り回されないことがより大切なことも確か。仮に足元が揺らいでも立ち続けるために、足腰の鍛錬こそ肝要だ。

その果ての絶景

2017年02月08日 | 読書
 「光降る丘」は、観光名地のようなものではない。地理的な条件によって絶景と称される場所は各地にある。しかし、ここに著されている「光」は原生林を切り開いた末の「満天の星」であり、それに呼応する「家々の窓から漏れる電灯の灯り」である。その実現を、昭和40年代まで待たねばならなかった価値を想う。

2017読了12
『光降る丘』(熊谷達也  角川文庫)




 2008年6月の岩手・宮城内陸地震で大きな被害を受けた宮城県栗原市の開拓村が主たる舞台となる小説。「揺れる大地」という地震当日の様子から書き出されるが、時間を遡って主人公のシベリアからの引揚体験、帰国、入植という筋と、もう一人の主人公であるその孫の地震被害への向かい方を、交互に章立てしていく。


 戦時中の満州移民、シベリア抑留は現在でもよく取り上げられる。体験した方々のその後は様々だろうが、おそらく国内での開拓に向かった数も少なくはないはずだ。TVドラマとして観たこともある。この小説は実際の開拓村資料をもとにしているので、その具体についてかなり丹念に書き込まれていて、姿が見える。


 改めて開拓村に根付いた方々の精神力を想う。もちろん、その過程で力尽きたり、不慮の事故に遭ったりした者も多い。しかしその度に個々が持ち合わせていた強靭さは、生き残った者に引き継がれたのではないか。大自然の猛威、困難にしたたかに立ち向かう姿は、教育や感化といったような言葉で言い尽くせない。


 記憶にあるあの地震は土曜日。自宅居間で寛いでいた時に感じた揺れは大きく、すぐ勤務校へ出向いた。建てて10年ほどの校舎は内外ともびくともしなかった。校長室内でこけしが2本だけ倒れていた。しかし、学区内では崩落があり県道を閉ざし、その後数年間の不通が強いられた。脅威は身近だったことに思いを馳せた。

一発退場へ個の呻き

2017年02月07日 | 雑記帳
 最近のニュースで耳についた言葉の一つが「忘れられる権利」。これは、「ネット検索の犯罪歴削除」を求めた男性の訴えを最高裁が棄却した報道のなかで語られた。プライバシー保護か公共の利害かという論点は、児童買春という犯罪の社会的意義の重さが根拠となり、判断が下された。その権利は×とされたのだ。


 報道は、「忘れられる権利」と「知る権利」について、あれこれと話していた。ぼんやり見聞きした頭では、やはり「知る権利は大事」と思いつつ、しっくり収まらない部分も残っていた。社会全般に漂う「一発退場」的な傾向を助長することになるのではないかという思いが、小骨のように刺さっているからだろう。



 わかりやすい例は芸能界だ。「たった一回の失敗が許されない世の中」になっていて、何か問題が起きれば、全部が右倣えをしてしまう。「あれは駄目だったが、この点に関しては十分な力があるので使う」とする考え方自体が批判されたりする。ビートたけしが語る「一億総自主規制社会」という表現がまさに当てはまる。


 この考え方は広く浸透し、一般企業や公共団体等にも影を落としている。またそんな大人社会を見聞きしている子どもたちが影響を受けるのは当然であるし、じわりとした危機感を覚える。ネット上の「忘れられる権利」は、総記録化社会の中で非寛容な傾向を強める世の中に対する、個の呻きであるのは間違いない。