すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

どこかにいる小さな自分

2019年01月09日 | 読書
 一時期のように「自分探し」とは言わなくなったが、「自分らしさ」という語はごく一般的に誰もが使う、それも非常に肯定的なイメージを持ち続けている。

 しかし、そうした傾向に異を唱えている方々も少なくない。

 平川克美は、著書に関するインタビューで「自分が何者かなんて、考えたってわからないでしょ?自分のことが一番わからない」と語り、続けて「実は、自分をどうやって消し去っていくのかということが、楽しい人生を送るコツなんだけどさ」と、納得の処世術?を披露する。

 そのうえで、そのインタビューの結びをこんなふうに結んだ。

Volume.138
 「自分はどこにでもいるんだよ。自分なんかないから、誰かの中で自分の考え方が生きる。誰かがどこかで自分を呼んでいたりするわけ。その声を聞き取れるかどうか。聞こうとしないと絶対聞けないんだけど、」


 目が内向きに偏っていては、そんな考え方は起きないだろう。
 お金であったり、地位であったり、他からの評価であったり、そんなことを必要以上に気にしていては、外に向ける目が曇る。

 個の中で生まれた考えなどないに等しいとはいえ、誰かから教えられ、少しずつ少しずつ培われてきた「自分」は、きっと誰かの中に存在する。
 そう考えると、なんだか楽しい。

 その存在を聞き取り、見つけだし、働きかける時間こそ、極上と言えるような気がする。
 たとえわずかな、とるに足らないものであっても、どこかにあると信じたい。

読書の心得ことば

2019年01月08日 | 読書
2019読了3
 『智慧の実のことば』(糸井重里・監修  ぴあ)



 「言葉は自分のものではなく、みんなのもの。『話す』と『離す』は、同じことなんです。」(社会学者・橋爪大三郎)

 離された言葉をきちんと捕まえたいと思うけれど、手の届かないコースを通るものもあるし、うまくキャッチできないこともあるだろう。


 「ほとんどの本が、詰めれば一行で済むんじゃないでしょうか。」(作家・荒俣宏)
 「一行では、伝わらない。ひとつひとつの言葉を高く積みあげていくことによって、ようやく何かが伝わる。」(翻訳家・池田真紀子)

 詰めれば一行で済むは読み方の心得、言葉を高く積みあげるのは書き方の心得、ということもできるけど、「離された」言葉たちの位置や役割によって違いが出てくるということじゃないかな。


 「一度読んだ本は、読んだことにならない。二度読んではじめて読んだことになる。」(経済学者・岩井克人)

 実用書であれ小説であれ、もう一度読みたくなる魅力こそが、自分にとって価値があるということは間違いないだろう。今年もそんな一冊に出会いたい。


 「ガンジーなどさまざまな人が言っていた言葉」として紹介された次の言葉には、だいぶ凝っている肩を押される。

 「永遠に生きるかのように学べ。明日死ぬかのように生きろ。

落ちこぼれの入門書読み

2019年01月07日 | 読書
 自分のなかでは何年かおきに短歌ブームが起こるようで、去年は別サイトに写真と一緒にアップしていた。まったく不定期で、さらに画像と詞の取り合わせの難しさもあり、ちょっと逃げ腰になっている状態だ。そもそも入門書好きなので、去年も俵万智の新書再読や佐佐木幸綱の本を読んでいるが、身につかない。


2019読了2
 『今はじめる人のための短歌入門』(岡井隆  角川選書)


 先月、糸井重里が『今日のダーリン』で紹介していた一冊を取り寄せて読んでみた。この歌人について名前は知っているけれど、親しみがあるわけではない。ずっと以前の印象として「難しい」イメージが残っている。三十年以上前に書かれたこの著は、初心者向けであり、難しくはないけれど、実はかなり厳しかった。


 短歌であれ詩であれ、テーマを選ぶことが出発であることは間違いないが、この歌人は冒頭の章でこう書いている。「『なにを歌うか』などということに腐心しないことです。うたうべきことなどは、この世にないといってもよく、また無数無限であるといってもいいのです。」この境地への遠さは計り知れないと感じた。


 「おのずから、その人の胸に落ちてくる」「短歌という詩型が、おのずから呼び寄せる」ものだという。漠然としたように聞こえる言い回しは厳しさに裏打ちされている。おそらく多くの初心者に共通する現実…「わたしの接して来た初心者の人たちは、わたしほど、短歌がすきではないらしい」…憧れの強度の差だ。


 私などはやはり決定的に落ちこぼれである。さらに「あくまで、文語的表現に立脚するもの」「紙と鉛筆さえあればできるというような安直なかんがえ方」と追い込まれると、「今やめる人」の決心を迫られているようだ。ただ、歌人の持つ言語表現への追求の熱は、ひしひしと伝わってきて刺激的だった。詠いたくなる。


 困難な道と知り得てペン持てりことばを愛しうたを生む人

制度化を震わせるため

2019年01月06日 | 読書
 読了した新書に引用されていた言葉に、目が留まった。
 熊谷晋一郎という東大准教授(小児科医)が書かれた文章である。

 この語自体は、ネット検索しても出てこない。
 文脈から理解できることは、仕事に就いていた時折々に感じていたことだなあと思った。

Volume.137
 「人間社会のあらゆる場面でおきている、『ポスト制度化問題』」


 制度ができる前、その制度を作ろうと尽力した人たちと、出来上がってからその制度を利用していく人たちとの間にはギャップがあり、なかなか解消できない面があるということだろう。

 作りあげてきた世代は、やはり「必然的に、全体がよく見える」のが普通だ。
 反して、その後の世代は「出来上がった制度の中にうまいこと囲い込まれる」形になり、ある意味で「見晴らしの悪い状態に陥っていく」という。


 例えば学校教育の場でも、ある活動がその学校の伝統的な内容として根付いている場合がある。
 それを発想し実際に始めた時のエネルギーと、年を経て位置づいているから実行するという時のエネルギーは明らかに違う。

 教育上のねらいや配慮すべき点など、いくら確認してもその差は容易には縮まらないだろう。
 「変える」ことに価値を見いだすのは簡単だが、「変えない」ことを価値づけることは、それより困難だ。


 本質を考える、現状を分析する、そして当事者性を維持していくために自らに問いかける…こうした場はなかなか持てない。

 だから今、考えを徐々にそこへ向かわせる仕込みと、考えざるを得ない仕掛けが必要になっている。

 仕込みと仕掛けで制度化を震わせるしかない。

『人生が二度あれば』と想う頃

2019年01月05日 | 雑記帳
 3日の新聞一面で今日のアウトラインを見ていたら「井上陽水、デビュー50周年」とあった。特集で組まれるあたり、サザンやユーミンと並ぶ大物感があるなあ。ああ70歳、古希なんだと思う。紅白歌合戦に出ていないところもまたいい。昔、オファーを断ったときの理由が「恥ずかしいから」。これもまた陽水らしい。


 実はこのブログには陽水絡みのことを何度か書いていて、BSなどで特集をしたときの感想が記されていた。恥ずかしさというのは「含羞。何を隠すか」と題付けたことと短絡的ながらつながるかもしれない。様々なバラエティに富んだ楽曲があるが「日本人しかない含羞」と親しい人たちが評したことは、納得できる。


 自分がハマっていた高校時代、つまり初期の曲は特にそうだったように思う。少し恥ずかしい告白をすれば、人前でのギター弾き語りデビュー曲は、陽水の『人生が二度あれば』だった。友人に薦められて飛び入りで歌ったら、校内新聞(笑)で絶賛され、それから変な自信を持ってしまい、その後5年の学業に影響した。


 それにしても『人生が二度あれば』を思い出すと、典型的なステレオタイプと言っていい内容だ。ただ、歌詞中の「父は65」まであと2年以上あるとはいえ、そんなふうに歌われる対象の年齢に近くなった現在に、今さらながら驚く。そして本当に「人生が二度あれば」と想うかと言えば、…ない。若い発想だと気づく。


 子から父母を見る設定であり、そんな思いを親に抱いたことは確かにある。親孝行できていない者の裏返しの感情かもしれない。自分自身の時間を巻き戻せたらという発想はよくあるが、全ての出来事は目の前の選択の結果成り立つわけで、そのことを思い返すと、件の発想はあまりしなくなる。少し寂しい気がする。

持ちつ持たれつの質を見抜く

2019年01月04日 | 読書
 車椅子に乗っている人が段差で難儀していることは、個人の問題なのか社会の問題なのかという視点を持つ意味は、福祉を考える根本になる。目指す社会をどんな形に描いているか透けて見えるからである。短期的な「生産性」という言葉で評価されることに振り回されては、真の意味で共生を考えることはできない。


2019読了1
 『なぜ人と人は支え合うのか 「障害」から考える』(渡辺一史 ちくまプリマ―新書)



 著者が出会った多くの障害者、関係者の言葉が紹介されている。地道に運動してきた重みを感じる。難病の当事者である海老原さんの言葉は特に強烈だ。「障害者に『価値があるか・ないか』ということではなく、『価値がない』と思う人のほうに、『価値を見いだす能力がない』だけじゃないか」…価値観が揺さぶられる。


 具体的に介助、介護に携わる場面でのエピソードなども豊富に盛り込まれている。予備知識なしにそれだけ見れば、いかにも障害者の「わがまま」のように判断しがちだが(「こんな夜更けにバナナかよ」という映画題に象徴される)、実は、介護される側・する側双方にとっての支え合いが成立していると見てとれる。


 「他人に迷惑をかけるな」と言われて育ってきた人は多いだろう。そのうちに誰しも他者に迷惑をかけずに生きていくことは出来ないと気づくが、刷り込まれた価値観に、能力による淘汰や自己責任の重さは付きまとっているようだ。その矛盾に目を凝らせば、自立とはいったい何を指すのかを問いかけることになる。


 エド・ロングという米国のカウンセラーの言葉が印象深い。「自立とは、誰の助けも必要としないということではない。どこに行きたいか、何をしたいかを自分で決めること。自分が決定権をもち、そのために助けてもらうことだ。」つまりは精神的な自立。社会の「持ちつ持たれつ」の質を見抜く想像力こそが自立を支える。

ガツンと来た読み初め

2019年01月03日 | 読書
 年間100冊読了を意識してちょうど20年が経った。99年に99冊を目標に掲げ100冊超えを果たしてから、記録するようになった。途中二度カウントしなかった年もあるが、ペースはそんなに落ちていない。150冊以上読んだ年もあった。概ね2200冊程度になったか。メモ継続は、数よりペースメーカーとして貴重である。


2019読了1
 『なぜ人と人は支え合うのか 「障害」から考える』(渡辺一史 ちくまプリマ―新書)



 年末から読み始めたこの一冊。実に素晴らしい内容だった。新書それもプリマ―なのでいわば初心者向けと言ってもいい。それに感銘を受けたということは、いかに知らなかったかを痛感したからだ。仕事を通じて特別支援教育等にも関わってきたけれど、障害者や福祉の本質を見据えられなかったことを今、反省する。


 著者は、最近映画化されTVでも紹介された「こんな夜更けにバナナかよ」の原作者。そのモデルである鹿野さんとの出会いから、障害の問題について深く関わるようになった。この一冊を仕上げるのに5年を要したという。「失望と停滞の連続」と自ら書くほど遅々としていた。だからこそ問い直しに溢れた本になった。


 共生社会という言葉は一般化し、障害者と健常者も共に生きるなどごく普通に私たちは使うが、ではいったい現実としてどんな姿なのか。これは「障害」とは何かという理解によって、かなり見え方が違ってくる。提示されている二つのモデル、「医学モデル(個人モデル)」と「社会モデル」を知ることが大切である。


 前者は、障害とは「個人に付随する特質」と考える。後者は「人と社会との相互作用によって生じるが障害」と考える。このとらえ方の相違は決定的である。例えば、車椅子の人に手助けする行為をする一つとっても、障害をどのように理解しているかによって、我々の置かれた社会の見え方が違ってくるということだ。(つづく)

それは、動的な結果に宿る

2019年01月02日 | 読書
 我が家恒例「今年の一字」を元日の寝床のなかで考えた。

 思い浮かんできたのは「」という字。
 年末に読んだ雑誌に、料理家の土井善晴が書いていたことが心に残った。

Volume.136
 「和食においては最上の価値観が『澄む』ことです。私たちは、うまく事が終われば、『すみました(澄んだ)』と喜んで、うまくいかなければ『すみません(澄みません)』と詫びるのです。澄むこと濁ることの同義語の『きれい・きたない』の区別が日本人の倫理観になるのです。」


 解決や終了を表す「済む」というレベルではなく、もう一段深いところから「澄む」と言えるような生活とか仕事とかしたいものだなと考えた。

 いや、それ以上に最近(というわけではないが)心の汚れが気になることもあり、もうちょっと浄化しなければという思いが強いからか。

 しかし、浄化は無理か…せめて沈殿させるか…と、もはや気弱な自分もいる。

 ともあれ、書いて宣言すること。



 ところで、どうして「さんずい」に「る」なのと、いつものように疑問が湧く。

 漢和辞典によると、意味は「水のよごれが下に沈み、清らかな部分が静かに上にたまる、よごれがとれてすみわたるさま」とあり、「水」の様子からさんずいであることはわかった。

 ではなぜ「登」かというと、これは「豆(たかつき)を手で高くあげたり、足で上にあがったりする」という意味であり、つまり、水を動かすことによって澄ませていくと想像できる。


 そうか、「」は、静的なイメージであるが、動的な結果に宿ると考えるべきか。

 黙っていては、濁ってゆくばかりだ。

横っ腹に穴あけて年を越す

2019年01月01日 | 雑記帳

(謹賀新年。本年もお付き合いのほど、よろしくお願いします。)


 大晦日。久々に酷い腰痛に悩まされてちょうど二週間が経った。数日前、よくなる兆しがあったし、降り積もる雪を見かねて、除雪に動いてみたら…また少し悪化したような気がする。「不健康なまま」などと書いたから駄目だったのかな。言霊をもっと意識せねば、暮れる年、最後の最後まであれこれ反省したくなる。


 そろりそろりと車庫のマブ(雪庇)落としをしてから、頂き物のBEERを第二冷蔵庫(笑)に入れようとしたら、中から一缶がゴロリと庫外へ飛び出した。あらーっと見ると、なんと下に置いたカセットコンロの五徳の部分に突き刺さっている。ビア缶の横っ腹に穴があき、泡が噴き出ている。しばし見とれてしまう光景だ。


 「どうしようか」と正月料理を作り始めている家人へ訊くと、「もったいない、今日はもう運転しないから…」と、昼から小乾杯することにした。餅少々と小豆とアイスの昼食。雪も小降りでいい年越しになる。夜は二人の娘たちが揃い、大晦日の食卓を囲んだ。たぶん6,7年ぶりだろう。「平成最後記念ということか。


 だらだら紅白を見ながら過ごすのは定番である。それにしても「平成最後」と謳ったけれど、ラストの「勝手にシンドバット」やユーミンの選定2曲、松田聖子のメドレー、「まつり」「天城越え」等々、「希望の轍」を除けば昭和の唄で占められた。紅白が象徴する平成を支えたのは、昭和のパワーだったと実感できた。


 ただ明らかだったのは、その歌手らの衰えである。代替わりが必要なのは宮家だけではない。温故知新、不易流行の精神をスローガンだけでなく、具体的に実行することが大切だ。すっきり晴れはしないが、穏やかな天気の下、初詣に行く。改元する次の時代にも、少しばかりは貢献できる昭和生まれでいたいと祈る。