すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ある意味、最大級の代名詞

2019年05月19日 | 雑記帳
 だらりとTVのケンミンショーを観ていて、津軽弁コーナーで「ナエガカエガ」という声が聞こえた。若干アクセントが違う気もしたが、この辺りでも結構使われる。しかし、この頃はあまり耳に入ってこないし、口にしない。これは方言というより訛りだろう。類例に「なえもかえも」「なえでがかえでが」などがある。


 「なえがかえが」は「なにかかにか」であり、漢字を入れると「何か彼にか」。見出しにはおそらくないだろうなと電子辞書を引いてみたら、なんと「和英大辞典」に載っていた。例文は「君はいつも何かかにかしている」。「何か」だけで通じるので、「彼(か)」は「何」に付いて、語呂をよくし強調もしているようだ。


 こう考えていって、あっ「なにもかも」という言葉は「何も彼も」かと、今さらのように気づく。それはやや強引にまとめれば、「何」という身近にある事物と「彼」という離れてある事物、さらに言えば、見えるものと見えにくいもの、その両方つまり「全部、すべて、何事も」を指すわけだ。二語で括れることが凄い。


 ちなみに「なにか」と辞書を引くと(PCでの変換は難しいが)「何彼」が出てくるわけで、この語をもとにした句はたくさんある。「なにかに」「なんとかかんとか」「なんやかんや」「なんでもかんでも」…「なんでんかんでん」という全国区のラーメン店名もその類である。「何彼」とはある意味で最大級の代名詞だ。

プリンのような一冊

2019年05月18日 | 読書
2019読了50
 『漁師の愛人』(森 絵都  文藝春秋)



 そう言えばどこかで聞いたことがあった。「プリン」の正式な名前が「プディング」であると。いわば訛りが通用しているのは、その語の響きの良さかなあと想像する。この本は全5篇中3編が短編であり、そのどれもにプリンが登場し、結構大事なモチーフとして扱われている。初めの作品は、題名にも使われている。


 「少年とプリン」という僅か12ページの物語は鮮烈なイメージが湧いた。小学校6年生の男児と担任女教師のある「対決」をめぐるこの話は、まるで詩のような終わり方をする。それは、「窓の外を渡る風のなかへ」軽やかに解き放たれたプリンの映像。こんなふうに魅せてくれる作品はあまりないなあとため息が出た。


 二篇目の「老人とアイロン」では、父子の口喧嘩と葛藤のきっかけになる、冷蔵庫に入れられたパックの安プリンである。一つとんで四篇目の題名は「ア・ラ・モード」では、まさしくプリン・ア・ラ・モードからプリンが無いという状況が作りだした展開が示される。これは意図的に盛り込んだとしか考えられない。


 つまりはプリンの持つ象徴性を使ったということか。「卵・牛乳・砂糖・香料などを混ぜ、蒸し焼きにして柔らかく固めた洋菓子」(広辞苑)…この万人に好まれるお菓子にある、一種の壊れやすさが浮かぶ。また価格の幅が広い商品であることを考えると、偽物か本物かといった見分けが関わる世の中とも重ねられる。


 短編三つのモチーフ論のようなことを書いてしまったが、他の中編二つ「あの日以降」と表題作「漁師の愛人」、これらも十分読み応えがあった。震災、失業、不倫、因習…その中で人間が喘ぐ姿を追いながら、希望を見失わないための目の付け所が読み取れた気がする。素材のよさに舌が喜ぶプリンのような一冊だった。

ウケる空気をつかむ

2019年05月17日 | 読書
 町内の小学校にお邪魔して読み聞かせをするポランティアを先月から始めた。といっても月に一度か二度のペース、まあちょうどいい。ただ子どもたちの前に立つのだから、当然それなりに準備は必要だ。テーマは何か、どんな題材を選ぶか、それに多少の脱線も…そんな考えで、久しぶりに子ども向け本を買った。


2019読了48
 『雑学 子どもにウケるたのしいクイズ』(坪内忠太 新講社)



 雑学といっても全てが「動物ネタ」である。子どもたちに聞かせる童話などには、動物が主人公になったり、主要人物になったりする場合が多いので、それと絡めることができるかなと考えた。もちろんフィクションと、クイズの基になる実際の知識とは違うのだが、導入で使ったりして興味づけできるかもしれない。


 自分自身がまったくの理科オンチなのでへええと思うことも少なくなかった。例えば、最近鳴き声が喧しくなってきたカエル。田んぼはアカガエルの仲間が多いというが、「ヒキガエルの寿命」は何年ぐらいかなど考えてみたこともなかった。約30年という長さに少しびっくり。その知識があると、見方も変わってくる。



2019読了49
 『読み聞かせ 子どもにウケる 落語小ばなし』(小佐田定雄 PHP)



 自分の持ちネタ(笑)の一つである「落語紙芝居」の前後に使えるかなという単純な発想だった。本物の落語ではいわゆるマクラと呼ばれ、この本に収録されているいくつかも聞いたことがある噺だ。それにしても活字にしてみると面白くもなんともないなあ、と改めて思ってしまう。これはシャレやジョークも同じだ。


 結局のところ、場の状況、設定、そして何より口調や間といった演じ方の部分が最も大きい。前掲書もそうなのだが「ウケる」ためには、空気を読みつかむことが最も大事になる。現役教師は日々そうした空間に居るわけで当然ながら上手い。限られた時間に相手をするとしたら、何を強みにするか吟味しなければ…。

たべびと、名物を喰らう

2019年05月16日 | 雑記帳
 新しい仕事に就いて二度目の県都秋田市への出張である。今回は会場が県庁それも県議会棟ということであった。午後からの開始なので、お昼まで市内に着いてどこかで昼食をとって…と予定していたが、待てよ確か県庁にも食堂があるはずと思い、そのまま県庁駐車場へ入れて庁舎内に入った。食堂は地下にあった。


 学校に勤めていた頃は本当に数えるくらいしか庁舎を訪れていないし、食堂利用など思いもつかなかった。結構な歴史があるこの建物の内部施設に、この後入る機会があるものやら…と思いつつ足を踏み入れた。お昼を過ぎた頃で、それなりに職員や来庁者で賑わっているようである。さて、何を頼もうかと見渡すと…。


 日替わり定食は麻婆豆腐かあ、これはちょっと…あっ角煮ラーメンもユニークだな、と決めようとした時「県庁名物」という掲示が目に入った。なっ、なんと「かつ丼カレー」。カツカレーでもなく、かつ丼ミニカレー付きでもなさそうだ。650円也。最近の自分にはハードに思えるが「県庁名物」は頼むしかあるまい。



 こんなビジュアルで、結構な量である。それにしても「名物」なのに周りを見渡しても誰も食べていないし、厨房への注文にもかつ丼カレーというオーダーは一度も聞こえない。つまりは昔の名物だろうなと悟る。おそらくはこの庁舎が出来たときに業者が入ったのだろうから、かなり歴史が長い。明らかに昭和の味である。


 このコラボとボリュームは、当時の若手の職員には流行っただろう。そう言えばTVでお馴染みの本町出身の某さんが、若い頃夜遅くまで県庁の明かりが灯っているのを見て、自分も頑張らねばと奮い立った記憶があると話したことがあった。その頃を象徴する一つか。良くも悪くも時代は流れたと思いつつ、完食!



PRは実現させること

2019年05月15日 | 雑記帳
 ふだん何気なく使っている言葉でも、何かの折に改めてその意味に触れて考えさせられることが多い。最近、読んだ仕事関係の本では「PR」がそうだった。いつ頃から一般化したか知らないが、ごく普通に小学生でも使う言葉である。当初は企業とかの使用語彙ではなかったか。今は「自己PR」と誰しもが口にする。


 PRを広辞苑で引くと「public relations 企業体または官庁などが、その活動や商品などを広く知らせ、多くの人の理解を高めるために行う宣伝広告活動」とある。publicつまり公、公的なということ、relationは関係が普通だから、合わせると、公との関係を築くといった意味で宣伝広告と結びついたと予想される。


 ただ、その本には「PRの正しい理解」と題されて、本来の意味で使わなければならないと強調されている。曰く「一方的な宣伝や世論操作(プロパガンダ)ではなく、コミュニティ構成員の間に理解と共感を広め、参加と協力を促すために、双方向性を重視して行われる」…この双方向性が大きなポイントではないか。


 様々な場で自己PRが展開される。当blogもその範疇になるだろう。しかし本来の意味にはほど遠い。ただ怖ろしく乏しい双方向性なので逆に割り切っても考えられる。Twitter、FB等他のメディアにしても基本は同じではないか。PRは自己開示の姿勢を保ち続け、広く周囲の声に耳目を傾け、考えることで実現する。

つまらなさの価値

2019年05月14日 | 読書
2019読了46
 『読書の価値』(森 博嗣  NHK出版新書)


 3月末頃から読書論的な新書に手を出している。いくつか読んだが、この本は読書より前に「価値」とは何かを考えさせてくれた。モノやコトの価値とは、結局のところ主観的である。この著者は独特の思考をする人であることは承知していたが、やはりこの本でも本当にあっと思わせられる。まえがきに結論がある。
 
 「僕が本から得た最大の価値は「僕が面白かった」という部分にある。だから、もし同じ体験をしたいなら、各自が自分で自分を感動させる本を見つけることである。」


 この、一見突き放したような結論を踏まえて展開される「読書の価値」は、結構広く、そして深かった。著者は「本というものは、人とほぼ同じ」という見方をする。ゆえに「本選びは、結局は人選び」とし、方向性は次の二つが求められるとしている。「未知」と「確認」。関係性を築く心理は言われればその通り。


 「本=人=作者」という捉え方も含まれるが、著者はもっと広く考えている。本という存在が個の人間に近く、様々関係を築けると考えている。だから「つまらない本」にも価値があり、例えば本選びに慎重になるとか、つまらない理由を探すことによって身につく技術もあると語る。その発想の客観性にも驚いた。


2019読了47
 『〇〇〇〇』(〇〇〇〇〇  文春文庫)


 久しぶりに「つまらないな」と感じる文庫を読んだ。有名な作家である。かつてはベストセラーもある。エッセイと短編小説が連なっている特殊な構成だが、試みはよいとしても文章がいいと思えない。難しい、馴染めないのではなくその逆だ。陳腐なギャグのように見えるのは「つまらない自分」に近すぎると気づいた。
(ファンに怒られると怖いので伏字にした意気地なしです)

いい季節、遠い記憶

2019年05月13日 | 雑記帳
 若葉萌ゆるいい季節になった。お天気も続き、絶好のドライブ日和であり、久しぶりに一泊で出かけてみた。行き来の高速道は藤の花が盛りになっていて目に楽しい。さらに、訪れた仙台は来週の青葉まつりを控え、今まさに「杜の都」の名がぴったりな時期。いくつか計画したお楽しみも、ほとんどが合格印だった。


 今回は昨年出来た寄席「花座」訪問が目的の一つ。わずか三十席程度のスペースであるが、定席として年間休まず開かれていると言う。三名の噺家で二時間弱、じっくり聴き入った。ただ、あまりに客が少人数だと聴く方もプレッシャーを受けると感じた。また、粗さが目についてしまうのも距離の近さによるものか。


 「たべびと」として食の話題はメモを欠かせない。昼食は有名ラーメン「伊〇商店」。手打ち縮れ麺がユニークで美味だった。夕食は市内に数店あるチェーン「飛〇」牡蠣小屋バージョン。年中地元産の生牡蠣を堪能できる。予約しないと入れないほどの盛況だ。生と焼きそして旬のホヤなど食べまくり大満足であった。


 北欧発の家具量販店いや巨大雑貨店IKE〇に入ったのは、目的の某サーカスイベントを観るための駐車場利用だったが、それにしても規模の大きさに少し驚いた。モノの豊富さ、安さがトータルにコーディネートされているとでも言おうか。国内の類似した店との違いは何か、もう少し廻ってみたい気にさせられた。



 キュ〇オス仙台公演。昨今のサーカスはこうかと感心しきり。華やかさ、演出は昔と比べ物にならない。改めて人間の身体能力の素晴らしさに舌を巻く。客席に下りてのパフォーマンスがあり、頬をつねられる一瞬があった。そう言えば遠い昔遠足引率で行ったサーカスで、林檎を舞台上へ投げた記憶がよみがえった。

誰しも自作自演の人生

2019年05月10日 | 読書
 楽しく読了した『思わず考えちゃう』(ヨシタケシンスケ)。ではどんなPRが書いてあるのかと『波』5月号をめくってみた。最初の対談は相手が女優寺島しのぶ。圧の強いイメージがある人だからなあ、と読むと案の定。編集上はバランスがいいが、ファンという寺島の「本当に素敵」という一方的攻撃が目立った。


 「この本は、自由っていう事が、隠れテーマじゃないですか」と鋭く切り込む寺島。その読み方はかなり的を射ている。「難しいですよね」と引き気味のヨシタケが、放った言葉もかなり哲学的だ。「自由って何だろう、って大きなテーマですけど、その答えが自分なりに見つかった人が、幸せに近い状態になれるかなと。


 書評は脳科学の専門家である池谷裕二。「人生の応援歌」と題されている。さすが、ヨシタケの視点を心理学用語と重ね、ある事象を別の枠組みでとらえ新しい見方が学べる本だと絶賛している。端的なこの評価が象徴的だ。「この本はリフレーミングに次ぐリフレーミングの連続。もはやリフレーミングの暴風雨です。


 ヨシタケ自身はそのことを「めんどうくさい感じ」と自嘲しているようで、その雰囲気もまた面白い。しかし、それは感情に流されないために必要なことだろうと思う。池谷が取り上げた「このこどく感はきっと何かの役に立つ」のように、俯瞰的な、未来志向的な一言を呟けるためには、やはり考えるしかないのだ。


 「脳は自分の都合のいいように物語をつくりかえる」というような言い方を池谷は自著で示している。そのいい例がヨシタケの本にも載っているとして、独特な言い回しでこのように結んでいる。「(自分に都合のよい)世界が自作自演であることを、当の本人が忘れている。それが人間の本質であり、人生そのものです。

考えちゃえば、いい事ある

2019年05月09日 | 読書
 新潮社のPR誌『波』5月号に【ヨシタケシンスケ『思わず考えちゃう』刊行記念特集】とあり、対談と書評が載っていた。めったにないことだが、そこに目を通す前に発刊された本を読んでおこうと思った。絵本というジャンルではなくエッセイのようだ。『波』表紙にあるヨシタケの筆蹟もよかった。こう書いている。

 日々の生活の中で、
 考えてどうにかなることは
 2割くらい、ある。



2019読了45
 『思わず考えちゃう』(ヨシタケシンスケ  新潮社)


 大事なことは「ある。」だ。考えてもどうにもならない、しようがないではなくて、「2割くらい、ある。」。こういう落とし方が自分は好きなんだろうなと思った。「思わず考えちゃう」は妄想癖を持つ人間の姿だろうけど、その習性は日常の生活に生かせるし「考え方」を学べば、よりましな人生に向かうはずだと信じる。


 そういう「考え方」にあふれた本だと思う。それはきっと、人間(大きすぎるので「自分」と言い換えたほうがいいかもしれないが)をまるごと認める筆者の感性によるものだ。例えば、次のような項目、本当にセンスを感じる。

 よごれて洗って
 よごれて洗って。
 いい感じになりなさい。



 よごれちゃう、きたなくなっちゃうと思って躊躇したり、踏み出せなかったりしたとき、こんな言葉があったら元気をもらえる。そのうえ何度も洗っていくうちに「いい感じの風合いになるじゃない」なんて、ジーンズのCMみたいな感じに思えたら、きっと多少の失敗も挫折も乗り越えていける気がするではないか。


 特に第3章は読み応えありで、冒頭の「できないことを できないままにするのが 仕事」は考えさせる。一般的には逆のことだと承知の上で、著者は「できないことをそのままにするっていう覚悟の決め方」もあるのではないかと言う。同調圧力が強いこの社会の中で、ヨシタケのつぶやきは一つの受け皿になる。

妄想作家との出会い

2019年05月08日 | 雑記帳
 「妄想」とは辞書にはあまりいい意味で載っていない。ちなみに広辞苑には「①みだりなおもい。正しくない想念②根拠のない主観的な想像や信念」などと記されている。しかし、だからこそ面白い。端的に言えば、想像力を高めるためには、当然ながら妄想の部分も含めなければならない。第一、妄想は楽しめるし…。


 絵本作家ヨシタケシンスケの『りんごかもしれない』に出逢ったのは何年前だったか。校内の読み聞かせのためにPPT化し、大型TVで絵を映しながら読んだ記憶もある。さらに、それを生かして六年生卒業祝賀会用にある企画を考えたことがある。いわば妄想力アップのための導入授業と言ってもいいかもしれない。


 『りんごかもしれない』を読み聞かせたあとに、「この絵本の発想をもとに…クラスの仲間を、妄想、してみます」と切りだす。この辺りでは子供たちはチンプンカンプンなのだが、シートを渡し書き込む形が「~~~かもしれない」であることを示しいくつかの例を挙げていく。すると結構子どもたちの目が光りだす。


 「○○君は宇宙人かもしれない」「□□さんは白菜かもしれない」という基本パターンから「△△星人」「最高級の白菜」というアレンジを加える手法。さらには「~~すると~~(なる)かもしれない」「~~しても~~(ない)かもしれない」という別パターンも紹介する。その他も自由だが「かもしれない」形に集約していく。


 すぐに作業に入れる子もいるが、思い浮かばず悩む子のために「考えるヒント」提示した。まず「似ているものを探せ」次に「特徴的な言葉、動きを探せ」となる。相似、類似から発想するパターンである。さらに逆の「似てない」「しそうもない」から発想する方法もあることを伝える。対照的、逆転性の面白さである。


 グルーブでワイワイ言いながら、なんとか仕上げることができた。一人一つではなく数人分作らせ、それをもとに演じさせ撮影する。衣装も凝ったり、編集効果も入れたりして、楽しく放映できた思い出がある。妄想をネタに出来たのは、やはりいい絵本があったからだ。「ヨシタケシンスケは偉い!」と新刊本を読む。