すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

連休読書から道具精選論

2019年05月07日 | 読書
 平成から令和への改元は、何か騒々しいような気がした。当然だけれど「昭和は遠くなり」という感も次第に強くなる。まあ、そこまで戻らなくとも20世紀から20年近く経ってしまったと、TVドラマ再放送など観るとそう感じる。最近読んだやや古めの小説2冊に、その20世紀が歴然としてあった。懐かしく読んだ。


2019読了43
 『つきのふね』(森 絵都  講談社)


 98年発刊。中学生向けとはされているが、とてもいい作品だ。ノストラダムスの予言話がポイントになって展開する要素があるので、その時代の雰囲気がよく伝わってくる。万引きに「フィルム」が出てくること、手紙という連絡手段のエピソードも普通に読んでしまうが、廃れている現在を思えば、やや心が騒ぐ。


2019読了44
 『霧笛荘夜話』(浅田次郎  角川書店)


 この単行本は04年の刊だが、7章中4章までは90年代に小説誌に発表されたものだ。霧笛荘という古いアパートを舞台にした連作短編。部屋ごとに住人の人生が語られる。纏足の管理人老婆、ホステス、荷役、音楽を目指す若者等…背負う過去を含めて、やはり20世紀でなければ成立しない話だなとしきりに思った。


 共通する小道具としてよく出てくるのが電話である。固定電話、公衆電話が登場してくる場面は、ストーリーには欠かせない。通信は時代を象徴するツールだ。それがもしスマホだったら、一挙に設定が崩れ、人生の展開そのものが違ってくる。考えを進めると、道具に支配されている生活という観念も思い浮かんだ。


 「人間が変わる方法は三つしかない」という大前研一の名言がある。それは「時間配分」「住む場所」「つき合う人間」。しかしそれに加えて「道具」も考えられないか。我々は道具にあふれた生活をしているが、手軽さ・便利さゆえに見失ってきたことが多い。取り戻したい自分があるなら、まず道具に目をつけてみたい。

旬とは、滋味深い

2019年05月06日 | 雑記帳
 昨日の朝刊掲載の「内館孜子の明日も花まるっ!」は、「美肌のヒミツ」と題されて、「その土地のものは生まれた風土の中で食べると、おいしさが違う」ということから、「旬のもの」を味わう大切さに触れていた。ちょうど山菜の時期なので、まさしくそのことをよく感じられる。それにしても「旬」とは滋味深い語だ。


 「旬」は大漢和辞典音訓索引に「シュン」「ジュン」「しゅん」の三種類が載っている。これは「日本語特有の一字の漢字」として「旬(しゅん)」があるからだ。通常は熟語として上旬等の「ジュン」という読み方で「十日間」を表している。どんな経緯で「盛りの季節」を表わすようになったかは見当たらなかった。


 さて、かの健康美食を究めた北大路魯山人が常に強調していたことは、「旬の食材の鮮度への徹底したこだわり」であると、某作家のエッセイで見かけた時がある。これは間違いなく「自然観」と結びついている。加工食品や化学物質の調味料抜きには現代の食生活は成立しなくなっているが、基本は忘れずにいたい。


 「旬」とは「時間」の一つを意味する言葉。それは自然の営みと結びつき、食に関する大事な要素になると考えれば、おろそかに出来ない気がする。つまり、旬の食材を使った料理をいただくとは、季節に、出された一瞬に向き合い、時間を捉えることだ。それを大袈裟と言うならば、感覚を研ぎ澄ますことはできない。



 「旬がわかりにくい」ことは流通の発展と結びつき、否定できない。しかし自ら作った作物を自分で売りに来る(道の駅や直売施設等)人が多くいる市場に「山盛り」になっているのが旬である。それも市場経済には違いないが、そこは顔が見え、季節が見えることが前提だ。その営みの持つ意味を時々思い起こそう。

その支配に手を貸さない

2019年05月05日 | 教育ノート
 一昨日『ボクの自学ノート』という番組のことを書いてから、ふと前日に読書メモした『半市場経済』(角川新書)のことが思い浮かび、読み直してみた。


 「存在感のある時間を求めて」という第三章は、杉原学という方が執筆しているのだが、冒頭にコミュニティ研究をしている社会学者マッキーヴァ―の述べたことを引用している。

 「私たちは、歳月の方をつかまえると、この瞬間を見失ってしまう。未来のために生きると、生きている現在を見失ってしまう」


 時々ふと抱く心持ちがズバッと広がった気がした。

 『ボクの自学ノート』の明日佳くんのノートに向かう姿は、まさに「生きている現在」を感じさせてくれた。
 結果的にはそれが受け入れられドキュメンタリー制作につながったとはいえ、一つの壁のような存在として出てくる学校教育のあり方に思いを巡らせざるを得なかった。

 その原点は明治期の学校教育導入にあったことが、この第三章で詳らかにされている。

 江戸期に日本人の姿を記した外国人の文献では、共同体ごとに自由で多様な時間が営まれていることがわかるとされ、それを著者は「われわれ時間」と称する。

 その「われわれ時間」を「西洋の時間=時計の時間」へ変えていくために、大きな役割を果たしたのが学校教育である。
 寺子屋を廃し導入された、近代的な学校教育の「本質は教科の内容ではなく、時計の時間に管理された生活に子どもたちを慣れさせることにあった」という。

 この指摘は特に新しくはないだろうが、時間意識の大きな変化という意味では今とても重く感じられる。
 「時間規律の身体化」「時間の私有化」を生み、共同体にあった「共有された時間の喪失」につながる。
 ここ数年、自分が地域行事等に関わる折に感じていた苛立ちのような感情の正体を見せてくれたとも言える。

 
 その点はさておき、個人が「自分の時間」を持つことは、近代の「自由」を考えるうえで最も大切な一つであるわけだが、いつの間にかその時間が支配されていると感じる人は少なくないだろう。

 それは大きく言えば、未来への不安が「貨幣獲得の手段」のために「賃労働」へ向かわせていることが基盤となっている。
 そして、その労働に投入される「自分の時間」は、実は「交換可能な時間」であり、それは「交換可能な自分」にも通ずる。


 そこに到れば「社会に出れば、効率的なことが求められる」と口にする教育は、昔から言い古されている「労働力の提供」でしかないのか、という気にさせられる。

 キャリア教育、プログラミング教育と華やかに唱えながら一皮むけば交換可能な人材づくりではないか、と問われたら、否と応えられる信念はあるのか。

 「未来による現在の支配」に手を貸してはいけない。


 と、ずいぶん遠大なこと書き散らした、子どもの日。

職人魂に触れた迷人(笑)

2019年05月04日 | 雑記帳
 録りためた番組の中にあった『プロフェッショナル 仕事の流儀「疾走、あんこ道~菓子職人・小幡寿康~」』を観た。

 なんと言っても「あんこ」ですよ。
 「あんこ(餡)は、あんこ(兄、男)がつくります」と下手な駄洒落にあるように、一昨年あたりから「小豆炊き」を定期的にしているので、興味が湧いた。


 その人生はさておき、煮方などの処理に目がいく。
 小豆というと、まず「渋抜き」であるが、普通は鍋に小豆と水を入れ沸騰させる。その時間や回数などは、いろいろなやり方があることを知っている。。
 しかし、小幡はそのどれとも違っていた。

 小豆に熱湯を注ぎ、撹拌させていた。えっ、そうなんだ。

 料理番組ではないし、人を描くドキュメンタリーなので詳しいところまでは描かれていない。
 渋抜き以外にも、煮方や差し水など独特の方法があるようだ。

 「もう少し」「もう一度」という声が印象的だ。
 当然、レシピも見えず真似しようがないが、精度を求める姿勢が伝わってくる。


 教えを乞いたいという要望に応じて全国各地の菓子店等をまわる小幡は、いわばフリーランスの職人だ。

 それは腕一本の存在であり、その店で使っている豆の質に応じた見極めもされていた。それ以上に凄いと思ったのは、その場で最大限の質を求める姿勢だ。

 自分の思い通りの場で、材料、道具を揃え、完璧を目指す仕事師は数多い。
 だが、与えられた場の中で最善を尽くし、そこで結果を残す人こそ真の職人魂、名人と称されるべきだろう。


 と、名人を目指す(わけがない)自称迷人の令和初の小豆煮です。



 あんこではなく、食べる小豆が好きなので、いろいろと試しながら豆の食感を残したイッピンです。
 砂糖抑え目なので照りはありませんが、美味しいです。

自学が目指す姿を見失わない

2019年05月03日 | 教育ノート
 令和初日の夜にBS1で放送された『ボクの自学ノート~7年間の小さな大冒険』を観た。「自学ノート」という語に反応するのは、自分なりの思いがあるからだが、その捉え方や形態が違っても「自学」が目指す姿は一緒であるはずだ。ただ学校教育は真の意味で、そういう姿を志向しているのか考えさせられる番組だった。


 番組はリリーフランキーや最相葉月といった有名人からの賞賛で始まる。そして、彼の続けてきた「自学ノート」、それは新聞等資料を貼り付け、そこに感想や考えを書き込んでいく形であり、そのノートが何冊も並べられている自室での語りを中心に、母親や周囲の関わりがあった人たちの声によって構成されていた。


 子どもノンフィクション大賞を受賞したとなれば、普通は脚光を浴びていいはずだ。番組に取り上げられること自体華やかなのだが、登場した元同級生の子は、周囲は知らないのではないかと漏らす。彼は、放課後一目散に自宅へ帰り、新聞やノートに向かう小・中学校生活を過ごした。絶縁によって築かれた世界だ。


 彼がそうした過去を振り返るシーンは少し切なかった。そして母親が自分の子の育ちについて、主として学校との関わりを述べたときに流した涙は、「個性重視」がいつも建前に終わる現場の無力さを示している。彼を支えたのは、その現実を呑み込んだ家族であり、彼独特の行動力に共振した周囲の人々の声だった。


 教師なら、彼の部屋を目にすればその資質をおおよそ予測できる。そして仮に担任ならば、番組で実際に教師が語ったという「効率的にやることが社会では求められる」とのすり合わせが可能かどうか悩むだろう。現実的対応の選択肢は多くないが、せめて個の「自学」が消失しない姿を探す決意だけは離せない。

交換している実感を持つ

2019年05月02日 | 読書
 よく知られているように、経済とは「経世済民」という語がもとになっている。この頃、自分が目の敵のように経済重視を持ちだすのは、本来的な意味からすればピント外れなことだ。正確には「市場経済」に問題がある、それに翻弄される考え方を批判すべき…ということで「市場経済」。ではなくて「市場経済」。


2019読了42
 『半市場経済 ~成長だけでない「共創社会」の時代』(内山節 角川新書)



 市場経済から一切逃れることなどできないと承知している。いかに離島や山奥に住んでいようと、今のこの国この時代では不可能なことだ。が、しかし多くの人が今の経済状況について、労働の意味について、少なからず疑問を抱いていることは確かだ。理由もぼんやりと捉えている。それを明確にしてくれる本だ。


 「経済は何のためにあるのか」と問えば、個の幸福や充足感と結びつくだろう。それを保障するための社会体制が求められるわけだが、現実には格差社会と称される構造ができ上がり、個の労働は切り売りされ充足感を持てないままに進行している。つまり「経済の展開と社会の創造が一体化」してないということだ。


 社会の一員とごく普通に言うが、今のシステムでは「その労働は、根本的に社会性はもってはいない」。感じ方に大小はあるにせよ、代替可能な労働力である虚しさを誰しもが持つ。打開のためには、新しい経済学や理論が必要なのではなく、新しい価値を共創する「関係性、共同性」なのだという実例が示されている。


 その際「スケール」はかなり重要だ。紹介されているソーシャルビジネス、エシカル(倫理的)ビジネスの多くは顔の見える関係の中で展開されている。日常生活に照らし合わせれば、市場経済の外に「交換している」実感の持てる暮らしがあるか問われる。それが共創社会の基盤になる。経済成長とは関わりがない。

今日も、いつも、心したいこと

2019年05月01日 | 読書
 「月曜から夜ふかし」は、昔風に言うなら不健全なTV番組なのだろうけれど、なるほどと思う箇所が結構ある。
 「令和」という新元号が発表されたひと月前のちょうどその日に街頭インタビューをして、その発表に関心を持たない人たちの様子を流していた。

 当然、そういう人たちも少なくなかったはずで、その意味では大いに健全だと思う。
 あの日、みんながみんなその発表に関心を持ち、喜んでいたわけではないことは誰でも考えればわかるはずなのだから…。

 けれど、マスコミは一方のことしか流さない場合が多い。


 そうした世の中にあっては、注意深く、様々なことにいつも目配せをしていきたい。

 個人的には、今日という日を少し新たな気持ちで迎えてはいるが、届いた本に同封されていた「納品書のウラ書き」(VALUE BOOKS)には、こんな言葉が記されてあった。

Volume.159
 時代をある期間でくくる。そこに本質的な意味はないはずなのに、人はうまく整理して、まとめようとしてしまう。(略)きっと時代のまなざしを借りれば、僕はかんたんに平成を振り返り、感傷的にその終わりを味わうことができるはず。でも、そんなこと、してやるもんか。

 こう考える人たちの存在を知り、認めていくことこそ、いい時代を作りあげていくはずと思った。

 整理しまとめることと、それで感傷的になることは、別次元なのだろうが、えてして人はそうなりがちだ。

 自分こそ心したい。