すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

文体遊びで本質に近づく

2019年08月07日 | 読書
 目玉焼きやハムエッグ、そしてインスタントラーメンなどを「説明文を書く」学習の導入として扱った。順序に従ってわかりやすく書く活動として、楽しく取り組んだ記憶がある。日常生活に密着しているし、何より食べ物ネタはそれだけで食いつきも良い。カップ焼きそばは扱っていなかったなあと、この本を見た。

2019読了77
『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』
(神田桂一・菊地良  宝島社)


 図書館の書架にあったのを見つけ、これは面白そう!と即借り…ずに、中古書店で求めた(風呂場読書になる確率が高いので)。なるほど、予想通り楽しく読めた。「文豪」といっても、文字通りの夏目漱石、川端康成といった大物だけでなく、海外作家、最近のブロガー、はてには雑誌、広告、テスト問題と拡散していく。


 つまりこの本は、「もし柳家小三治が本書の『解説』を話したら…」に書かれてあるように「文体遊び」であり、それにハマる私のような人種には堪えられない。編集、執筆に関わった人々同様、「サブカル大好き、見立てクリエイション大好き」な面を自覚できた。ただし田舎者、浅学ゆえのその幅の狭さは否めない。


 自分が好む作家やよく読んでいる方を真似た文章は、少し粗い(もっと面白くなるはず)と感じてしまった。それにしてもこの「遊び」は、文体の癖や表現上の特徴を通して、人やメディア等の本質に近づいていくような感覚があり愉しい。その意味で「自己啓発本」「道徳の教科書」(風に書いたもの)は、まさしく典型だった。


 秀逸だったのは巻末「もしカップ焼きそばの作り方をただそのまんま本に載せたら」と題し、ペヤングソースやきそばを初め8種類の説明を並べたこと。いやいや面白い。高学年以上だったら教材化できそうだ。ただ、完璧なマニュアルは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね、と村上春樹風に締めてみた。

アイとエーアイ、その狭間で

2019年08月06日 | 読書
 雑誌広告で、この新書の題名と著者を見たとき、おおなんと!と思った。

 『世界の中心でAIをさけぶ』(片山恭一)

 座布団3枚ぐらいやりたい気分である。

 ・・・の中心で、と来たら「アイ」と言いたくなるが、今なら「エーアイ」と言わなくちゃならないと、つまずきそうになる。
 そのひっかかりと、「愛」と「AI」との関係も気になるし…。

Volume.172
 「人間のなかにAIによって収奪されない部分はあるだろうか。ぼくはあると思う。一人ひとりの固有性をAIは奪うことができない。それはどのようなものか。たとえば『好き』がそうである。」


 つまり、愛はAIを超えるといいたいのか。

 しかし、そう簡単か。
 私たちは今、数えきれないほど「好き」の誘導に晒されている。

 片山は「ぼくたちが誰かと出会い、恋に落ちることを解読するアルゴリズムは存在しえない」とも書くが、厳密にはそうだとしても、メディアはいかにもそうだと思わせられる情報を、まるで攻撃でもするかのように目の前に登場させてくる。
 人であれ、物であれ、事であれ、その関係性に深く介入してくる。

 そしてそれらは、徐々にAIによって操作された内容となりつつある。


 どう防ぐかを真剣に練っておかなければ…。
 固有性を守るとは、自分の愛を守ることだ。
 外からの情報遮断、制限抜きにこの命題は達成できない。


 こんなに力んで書き込んでいることを自嘲しながらも、あの映画のワンシーンを思い出す。
 決定的な場では、人前で思い切り叫ぶほどの覚悟が、愛を守るためには必要だと肝に銘じておきたい。

実践例と補強理論だった

2019年08月05日 | 読書
 先日「生物として正規の部分は過ぎている」と書いた。いろいろな面からそれは証明できる。社会的には日に日に押しやられるような存在であることを自覚しつつも、それでも一個の自分は活動しているわけで、そこに「甲斐」は求めたい。教え諭してくれるのは人生の先輩とお医者様だろうか。ということで二冊。


2019読了75
 『一〇三歳になってわかったこと』(篠田桃紅  幻冬舎)


 四年ほど前に話題になった一冊だ。百歳を超えた方々が時々TVに登場する。かなり限定的な方々と思うが、共通するのは心の持ち方だろう。この本で言えば「自然体」。それも一様ではなく、つまり「誰か式、誰か風、ではなく、その人にしかできない生き方」を指す。簡単に見えて、ひどく困難のように思える。


 著者は墨を用いた美術家として名を成した。その生涯はもちろん平坦ではなかった。その中で大切にしてきたのは「感覚を磨く」こと。芸術家としては当然とも言えるが、それこそが自分を大事にする芯になるのではないか。例えば「」、例えば「虫の知らせ」…根拠がないと切り捨てられてきた。自分を信ずる心と共に。



2019読了76
 『自分が高齢になるということ』(和田秀樹  新講社)


 著者の書いた本は結構読んでいたはずだが、「高齢者専門の精神科医」という認識は持っていなかった。心理学や学習法などずいぶん読みやすい印象がある。この本もすらすら読める。主張もわかりやすい。ただ読み始めるときの前提にを受け入れるにはちょっとだけ覚悟がいる。それは「人は、誰でも、必ずボケる


 この齢になると将来はボケるか寝たきりかの二択だな、と時々頭をかすめる。ただ、事故等による寝たきりは別にしても、ボケは部分的・限定的であるという事実の大切さを見逃してはいけない。そこを出発点として、今をどう生きるか、どう考えるか。ボケを「新しい力」と真から思えるしなやかさを身につけたい。


 読了後に思うのは、この二冊は「それしかないわけないでしょう」の実践例補強理論だったということだ。

「大すらい!」と叫んでみないか

2019年08月04日 | 雑記帳
 夏休み後半に読み聞かせの依頼があり、20名ほどの異年齢集団を相手にする予定がある。年齢が離れているとすればやはり絵本になるかと思う。ここは大好きなヨシタケシンスケか…、以前PCに取り込んだ二つの作品はあるが、それ以降の本を探すことにした。人気作家なので複数あったが、新しい絵本が面白い。


 お兄ちゃんが「みらいのせかいは たいへんなことばっかりなんだってさ。」と深刻な顔をして言うので、ショックをうけた妹がおばあちゃんに相談すると、「だーーーーーいじょうぶよ!」と励まされ、大変なことだけじゃなく、楽しいこと、面白いこともたくさんあると言われ、例によって「妄想」がスタートする。


 『それしかないわけないでしょう』と題された絵本は昨年末の新作。まさに、ヨシタケワールド全開という感じだ。惹かれるのは、自分たちの置かれている社会環境に重ねてしまうからだろう。「こうなるから、こうするべき」「これかあれかのどちらか」…そうした声に常にさらされ、似かよった思考になってしまう。


 注意深く見守りたい隣国との関係だって、それしかないわけないでしょう。次々と雪崩のように中止が相次ぐ文化的な交流について言えば、やはり経済ありきの脆弱な関係しか築けなかったのか、と少し残念な気持ちになる。関係悪化の根幹部分は誰でもわかるし、トップらの言い方がそれしかないわけないでしょう


 と少し時事に触れ、内容の幅を広げてみました(笑)。しかし、考えの根本はこの絵本にある一言に重なっている。「『すき』でも『きらい』でもない、『すらい』とかあってもいいわよねー。」絵本では女児が父に向かって「おとうさんなんて、だいすらい!」と叫ぶ。我が国も隣国も互いに「だいすらい」と叫んでみないか。

かき氷、食べてないけど…

2019年08月03日 | 雑記帳
 暑いのに「かき氷」はまだ食べてないと、ある週刊誌の写真特集を眺めながら思った。そこにはなんと一杯1500円なりの「大人のかき氷」が載っている。最近そうした値段に驚かなくなった。別に裕福だからでなく、結局食べないし、もし食べるとしたら、その「値段を食べる」感覚しかないと醒めているからだ。


 昔話をする。小さかった頃、近所のⅠ食堂のかき氷は一杯20円が相場だった。詳しくいうと「しらたき15円」「いちご、めろん20円」「ミルク、あずき30円」だった。少し経ってから「いちごミルク」「小豆ミルク」などが登場して40円になった気がする。I食堂はまだ電動ではなく、手動だったことも覚えている。


 中学生になった頃か。橋向の菓子屋の二階にパーラーが出来て、「フラッペ」が登場した。なんと生フルーツが添えられている。いくらだったか正確な記憶はないが、100円は超えていたと思う。しかし衝撃だったのはかき氷にソフトクリームが乗せられたときだ。その豪華さ、口にした愉悦、まだ感覚がかすかに残る。


 「日焼け顔見合ひてうまし氷水」(水原秋桜子)という句がある。教科書に取り上げられていて、解釈からミニ作文という実践を作り上げたことがある。ここに描かれている情景は、ごく普通の店の、ごくありふれたかき氷でなくては成立しないだろう。リゾート地の高級な一杯に「うまし」という感情は生まれない。


 いくら中身が違うとはいえ、15円のかき氷が100倍の値段となったから100倍美味しくなったとは誰も思わない。「うまし」は大方その時の状況が決めるものだ。「味」であれば今までより変わった時、一段階レベルアップしたとき感じる。何より食べる「場」が決定的に関わる。「うまし」はそういう心の有様を指す。

言葉じゃないものを見つめて

2019年08月02日 | 雑記帳
 谷川俊太郎が「『猫をおくる』を読んだ日」という題で、新潮社の月刊PR誌「波」に詩を寄せていた。
 書評というべきかどうかかわからないが、新鮮な気がした。
 その中の一節である。

 「猫のアタマは
 言葉じゃないものでいっぱいだ
 私のアタマは
 言葉がないとからっぽだ」
 これは論語ではない私の四行



 別に猫好きではないので、深く共感したわけではない。
 ただ、毎日短時間ながら、孫と接する自分の感覚に近いなあと、しみじみ読んだ。


 今おそらく、言葉が言葉であることを体得しつつある一歳十か月の児。
 しかし、まだアタマの中は、言葉じゃないものにあふれている。
 そのひとつひとつ、いや個別には拾いきれない、名づけもできない、どろどろのような情動とは、なんと貴重であろう。


 それを毎日、何か形のあるようなものにしたい、言語化に近づけたい、人に誉められるような「お利口さん」の行動ができるようにしたいと…老いた顔や体を使って奮闘している祖父母つまり自分たちとは、ひょっとしたら罪深い存在ではないか。


 この児の社会化に貢献するより、もっと大切なこと…そう言葉じゃないもの、言葉なんかで揺らがないもので、その小さな心身を満たしてやることを心がけたらいい。

 そう思いつつ、「私のアタマ」は、また言葉を注ぎ込もうとしている。
 そんな自分に気づいたら、口を閉じて、ちょっと強めに抱きしめるしか手はないか。

梅雨が明けたらキニナルキ

2019年08月01日 | 読書
 読書に関する箴言(とまでいかなくとも、ちょっといい言葉)は、以前から目に留まる習性がついていたと思う。
 最近は女優というより書き手として、その名前を見ることが多い中江有里が「読むハードルを下げる」と題し、ある本の書評で納得の一言を書いていた。

Volume.170
 「本から得るものは読み手によっても本によっても違うし、誰に教えられるものでもない。最初から答え(結末)がわかっているなら、そもそも読む面白さも得られない。読むということは、つまり少し先の自分を作ることなのだ。自分の未来を面白くするのは自分次第。」


 加藤典洋という作家・批評家の存在は知っていたが、単著は読んだことがない。
 先日亡くなったということで、追悼文を詩人の荒川洋治が書いていた。そこに引用されていた文章を読み、少し驚いた。
 これほどの厳しさをもって文章というものを考える書き手は、ざらにはいないだろう。

Volume.171
 「『ある文章が力があるか、ないかは、そこにどんな妨害者がいて、乗り越えられているか、という形』で見定めることができるという。最強の妨害者とたたかう、そこに文章の意義と価値をみるのだ。」


 書くという行為の奥深さやスケールに対する想像が足りないな、じぶん。

 梅雨はなかったのに、梅雨明けという誰かの宣言に喜ぶな。