和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

観察の無私。

2011-04-01 | 詩歌
柴田トヨさんの詩をどう読めばよいのだろうなあ。
そんなことを思っておりました。
柳田國男の涕泣史談に、ああこれじゃないかなあ。
という言葉を見つけました。

まあ、そのまえに、柴田さんの詩を引用。

      あなたに

   出来ないからって
   いじけていてはダメ
   私だって 九十六年間
   出来なかったことは
   山ほどある
   父母への孝行
   子供の教育
   数々の習いごと
   でも努力はしたのよ
   精いっぱい
   ねえ それが
   大事じゃないかしら

   さあ 立ち上がって
   何かをつかむのよ
   悔いを
   遺さないために


では、柳田國男氏の文を引用してみます。


「以前国民の唯一の教育機関として、昔と後の世との連絡に任じていた故老は、別に何等かのもっと積極的な特徴をそなえていた。記憶力も欠くべからざるものであるが、それよりも大切なのは観察の無私であったこと、その上に過去というものの神秘性を感ずる人で、父祖の活き方考え方に対する敬虔なる態度を認め、その感じたものを自分もまた、次の代の人に伝えずにいられぬ心持を抱いている者、一種宗教的な気質の人が、いわゆるオールドマンだとリバース博士などは説いている。日本の田舎には、そういう人が元は必ず若干はいた。概していうとやや無口な、相手の人柄を見究めないと、うかとはしゃべるまいとする様な人に是が多かった。そらが人生の終りに近づくと、どうか早く適当な人をつかまえて、語り伝えて置きたいとあせり出すのである。男の中にもそういう人は無論いるが、どちらかといえば老女の中に、多く見出されるようにも言われている。・・・・・これを歴史の学問に利用する場合には、かなり骨折な手順がいることは事実であるが、その代りには是が無かったら、全然知らずにしまうかも知れぬことを、我々は学び得るのである。」


柴田トヨさんが90歳を過ぎてから、こういう詩を書き始めたことを思うにつけ、柳田國男氏の指摘を、あらためて思うのでした。

「観察の無私」ということで、柴田トヨさんの詩「被災者の皆様に」(産経新聞3月18日)を、すこし引用してみます。

      ・・・・・
      皆様の心の中は
      今も余震がきて
      傷痕がさらに
      深くなっていると思います
      その傷痕に
      薬を塗ってあげたい
      人間誰しもの気持ちです
      ・・・・・
      これから 辛い日々が
      続くでしょうが
      朝はかならず やってきます
      くじけないで!
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