新聞広告に
「買ひだめ」しないで下さい。
みんなの為なんです。
使ふ人、売る人、作る人の生活の為なんです。
さうすれば、みんな、うまくゆくんです。
品切にもなりません。
といっても、
これは、戦時中の1940(昭和15)年の新聞に載った広告。
ちなみに、これは天野祐吉氏の「花森さんと広告」という文から。
その前後を引用すると、
「戦争中や戦後のパピリオの名広告も、どうも、花森さんが一枚かんでいたらしい。・・・戦争中、企業の広告マンの多くは政府の戦時宣伝に協力させられていたが、政府が一般から公募した戦時スローガンの中から、『欲しがりません、勝つまでは』というのを特に推したのは花森さんだという話も聞いたことがある。」(p254.暮しの手帖保存版Ⅲ「花森安治」より)
暮しの手帖保存版「花森安治」には、花森語録というのが、短くも数々紹介されておりました。そこに、
「僕はたしかに戦争犯罪をおかした。言訳をさせてもらうなら、当時は何も知らなかった、だまされた。しかしそんなことで免罪されるとは思わない。これからは絶対だまされない、だまされない人をふやしていく。その決意と使命感に免じて、過去の罪はせめて執行猶予してもらっている、と思っている。」(p229)
杉森久英氏の「花森安治における青春と戦争」は、大政翼賛会に触れておりました。その会について、
「あるとき、例によってみんなで、軍人の横暴な話、食料や衣料の不足する話、電車や汽車の混む話などしていると、花森が、
『戦時世相いろはがるたを作ってみないか』と言い出した。
『イは?』と誰かがいうと、誰かが、
『犬も歩けば腹がへる』
『ロは?』
『論よりなぐれ』
『次はハだ』
『花より雑炊』
こういう調子で、みんな我勝ちに思いつきを言い出すのだが、見ていると、花森が誰よりも早く、またうまいのが多かった。こういうことにかけては、自信のありそうな顔ぶればかりだったけれど、どの題も花森の答えが一番早く、そして名案が多いので、ほとんど彼一人にさらわれたという形である。あれから三十何年過ぎた今は、花森がどういう句を作ったか、ほとんど忘れてしまったが、たった一つ、
『襟はまっくろ』というのをおぼえている。
燃料不足で風呂が焚けず、石鹸もないので、襟に垢がたまるというのである。
・・・・・
戦局がいよいよ悪くなって、どんな神州不滅論者にも米軍の本土進攻が避けられないと思えるようになったころのある日、いつもの通り雑談にふけっていると、中で比較的強気の気焔をあげている報道写真家某をつかまえて、花森は、ねばっこい関西なまりで、
『君なんか、今でこそ鬼畜米英がどうの、一歩も上陸させないだのといって、りきんでいるけれど、ほんとに日本が敗けて、みんな米軍の命令を聞かなきゃならないということになったら、まっさきにお出迎えに参上して、何かカメラでお役に立つことはございませんかと、註文を取ってあるくんだろうね』とひやかした。
事実、その男は、それから何ヵ月か後には、『一億一心』だとか『武運長久』だとかのテーマのかわりに、焼け跡の壕舎生活や、パンパン、戦災孤児の姿を撮るため、東京じゅう走り回っていた。・・・・」(p62)
「買ひだめ」しないで下さい。
みんなの為なんです。
使ふ人、売る人、作る人の生活の為なんです。
さうすれば、みんな、うまくゆくんです。
品切にもなりません。
といっても、
これは、戦時中の1940(昭和15)年の新聞に載った広告。
ちなみに、これは天野祐吉氏の「花森さんと広告」という文から。
その前後を引用すると、
「戦争中や戦後のパピリオの名広告も、どうも、花森さんが一枚かんでいたらしい。・・・戦争中、企業の広告マンの多くは政府の戦時宣伝に協力させられていたが、政府が一般から公募した戦時スローガンの中から、『欲しがりません、勝つまでは』というのを特に推したのは花森さんだという話も聞いたことがある。」(p254.暮しの手帖保存版Ⅲ「花森安治」より)
暮しの手帖保存版「花森安治」には、花森語録というのが、短くも数々紹介されておりました。そこに、
「僕はたしかに戦争犯罪をおかした。言訳をさせてもらうなら、当時は何も知らなかった、だまされた。しかしそんなことで免罪されるとは思わない。これからは絶対だまされない、だまされない人をふやしていく。その決意と使命感に免じて、過去の罪はせめて執行猶予してもらっている、と思っている。」(p229)
杉森久英氏の「花森安治における青春と戦争」は、大政翼賛会に触れておりました。その会について、
「あるとき、例によってみんなで、軍人の横暴な話、食料や衣料の不足する話、電車や汽車の混む話などしていると、花森が、
『戦時世相いろはがるたを作ってみないか』と言い出した。
『イは?』と誰かがいうと、誰かが、
『犬も歩けば腹がへる』
『ロは?』
『論よりなぐれ』
『次はハだ』
『花より雑炊』
こういう調子で、みんな我勝ちに思いつきを言い出すのだが、見ていると、花森が誰よりも早く、またうまいのが多かった。こういうことにかけては、自信のありそうな顔ぶればかりだったけれど、どの題も花森の答えが一番早く、そして名案が多いので、ほとんど彼一人にさらわれたという形である。あれから三十何年過ぎた今は、花森がどういう句を作ったか、ほとんど忘れてしまったが、たった一つ、
『襟はまっくろ』というのをおぼえている。
燃料不足で風呂が焚けず、石鹸もないので、襟に垢がたまるというのである。
・・・・・
戦局がいよいよ悪くなって、どんな神州不滅論者にも米軍の本土進攻が避けられないと思えるようになったころのある日、いつもの通り雑談にふけっていると、中で比較的強気の気焔をあげている報道写真家某をつかまえて、花森は、ねばっこい関西なまりで、
『君なんか、今でこそ鬼畜米英がどうの、一歩も上陸させないだのといって、りきんでいるけれど、ほんとに日本が敗けて、みんな米軍の命令を聞かなきゃならないということになったら、まっさきにお出迎えに参上して、何かカメラでお役に立つことはございませんかと、註文を取ってあるくんだろうね』とひやかした。
事実、その男は、それから何ヵ月か後には、『一億一心』だとか『武運長久』だとかのテーマのかわりに、焼け跡の壕舎生活や、パンパン、戦災孤児の姿を撮るため、東京じゅう走り回っていた。・・・・」(p62)