和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

いつでも。

2011-04-05 | 短文紹介
酒井寛著「花森安治の仕事」(朝日新聞社)に、こんな箇所がありました。

「花森は、その戦争のとき、大政翼賛会宣伝部にいて、少女歌劇の脚本に、『長い戦争だから、もっと明るく、もっと元気に』と歌う子どもたちを書いた。だが、じっさいの戦争は、そうではなかった。
『戦争中の暮しの記録』を企画したきっかけのひとつは、花森が若い編集部員と話していて、『疎開』という言葉が、うまく通じなかったことにある。そんな所に行かなければいいじゃないか、という疑問が若者にあったという。戦争は、伝えられていなかった。・・・寄せられた手記には、誤字、脱字、旧仮名づかいなど、はじめて文章を書いたと思われるものが、すくなくなかった。『不幸にして義務教育もろくに行かず、字を知らず此の様な物を書くのは、しつれひと思いましたが、あまりにも苦労したので少しでも心に光りをと書きました』と付記して、買い出しと、警官の取り締まりと、敵機襲来のみじめさを、こまごまと書いた明治生まれの主婦もいた。意味がとれるかぎり、原文のまま、誌面に載せた」(p210~211)


唐澤平吉著「花森安治の編集室」(晶文社)から、すこし引用。


「〈戦争を知らない子供たち〉というのは、北山修さん作詞、杉田二郎さん作曲のフォーク・ソングで、わたしたち団塊の世代にはナツメロみたいな歌です。この歌は、よほど花森さんの神経にさわったものとみえ、わたしたちの顔をみてはどなっていました。
それはそれとして、わたしの本棚に、一冊の古い『暮しの手帖』があります。昭和43年8月発行の1世紀96号『特集戦争中の暮しの記録』です。これはわたしの母が買ったものです。当時、わたしはまだ学生でした。この本の53ページに、こういう文章がのっています。二十歳のわたしに、生涯この身からはなすまいと決意させた文章です。

   これは、戦争中の、暮しの記録である。
   その戦争は、1941年(昭和16)年12月8日にはじまり、
   1945年(昭和20年)8月15日に終った。
   それは、言語に絶する暮しであった。
   その言語に絶する明け暮れのなかに、人たちは、
   体力と精神力のぎりぎりまでもちこたえて、
   やっと生きてきた。(略)
   こうした思い出は、一片の灰のように、
   人たちの心の底ふかく沈んでしまって、
   どこにも残らない。
   いつでも、戦争の記録というものは、そうなのだ。(略)
   その数すくない記録がここにある。(略)
   しかし、君がなんとおもおうと、これが戦争なのだ。
   それを君に知ってもらいたくて、
   この貧しい一冊を、のこしてゆく。
   ・・・・・・・・     
   ・・・・・・・・  編集者  」(p224~225)


ちなみに、大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社)に、この96号のことにふれた箇所がありました。それは「戦争中の暮しの記録を募ります」というところから始まっておりました。

「最初は、次の年の最初の号に発表する予定でしたが、とんでもありません。応募総数じつに1736篇。その多くは、生まれて初めて文をつづったと思われるものでした。あの戦争のあいだ、なにを食べ、なにを着て、どんなふうに生き、どんな思いで戦ってきたか・・・その行間ににじむ切々たるものに、どれを入選にするかどうか、悩みに悩みました。花森さんはじめ、私も、編集部の人たちも、全部の手記を読みました。そして139人の手記を入選としました。
私は『暮しの手帖』一冊全体を『戦争中の暮しの記録』だけで作りましょう、と提案しました。臨時増刊、特別号、単行本などにするよりも、定期の『暮しの手帖』に載せたほうが、よりたくさんの人に手に取ってもらえ、読んでもらえる。しかも、雑誌もよく売れ、営業的にプラスにもなると思ったからです。花森さんは『やろう』と決断。一冊全部を一つのテーマだけで作る・・・
この本だけは、『たとえぼろぼろになっても』読みつがれ、これから後に生まれてくる人のために残しておきたい、というのが、私たちの願いでした・・・・」(p198~199)


うん。私は、昨日その本を手にしたのです。
コメント (2)
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