保存版・暮しの手帖「花森安治」。
そこに永六輔氏が、ちょうど四百字詰め原稿用に一枚ほどの文を載せておりました。気になったので引用。
「花森さんは、我家に入ってきて 書棚の前に座った。
書棚を背にしたのではなく 書棚と向いあっていた。
そして沈黙。
背表紙とのニラメッコが始まった。
・・・・・・
・・・・・・
そして、うなづいたり 薄笑いをしたりしながら
本の背表紙を読んで 世間話をして帰っていった。
原稿依頼の話は それっきりになった。
・・・・・・
・・・・・・ 」(p212)
話をかえます。
谷沢永一氏が亡くなり、なぜか私は
渡部昇一氏の追悼文を3本も読めました。
産経新聞で、WILL5月号で、そしてVOICE5月号で。
その、すこしづつ違っている追悼文を読んだわけです。
ちょうど、今日読んだVOICEのには、こんな箇所が
「後年、谷沢先生の有名な書庫をぜひ拝見させていただきたいと思い・・先生のご自宅に出向いたこともある。有名な書庫については、これこそ司馬遼太郎氏も訪れて感心し、司馬遼太郎全集の解説を委託したという逸話があるほどで、私があれこれいう必要はない。だがあの書庫での時間は、同じく本の蒐集を楽しむ者として、これ以上ない至福の時であった。」
そういえば、谷沢永一著「司馬遼太郎」(PHP研究所)という一冊があるのでした。カバーの装画は谷澤美智子。司馬遼太郎が亡くなってから、次々に書いていった谷沢永一氏による追悼文と追悼対談をまとめた一冊(編集は山野博史)。この本に「司馬さんの見舞状」という文があるのでした。それは「阪神大震災では、私も致命的な打撃を受けた」とはじまっておりました。そしてその際、司馬さんから速達の書翰が届いたとあり、この「司馬さんの見舞状」では、その書翰全文が掲げられておりました(うん。そこも引用したいのですが、ここはやめときます)。その全文を谷沢氏が引用したあとに、こうありました。
「このように書き写しながら、いま私の手は震えている。また泣きたくなっている私の気持ちを、どうにも適切に表現できない。瞑目して話題を若干の注釈に移すとしよう。
司馬さんは一度だけ我が家を訪れられたことがある。昭和57年の秋であったか、産経大阪文化部の端山文昭さんを通じて司馬さんからの提案があった。お互い古書の蒐集に意を用いている同志の誼(よしみ)から、両家の書庫を交互に覗き見るのもまた一興と思うので、とりあえずは谷沢家の書庫を拝見したいから、適当な日時を示して欲しい。・・・とても人様を御案内できるような状態ではないのだが、相手が司馬さんとなれば話は別である。或る日の午後二時頃、端山さんの案内でお越しいただいた。・・・・とにかく書庫へ、と促されて案内したところ、司馬さんの本好きは、これはもう他に見られぬほど筋金入りである。ざっとひとわたり見渡すというような呼吸ではない。手近なところから目にとまった一冊また一冊と、いとおしむように引きだしていちいち開けてみる。これは珍しいですなあ、こんな本も蒐めたはるんやなあ、そういう風に感想を述べながら、書棚の前を立ちどまり立ちどまりしながら移動してゆく。福田定一の本名で書いた最初の著書「名言随筆・サラリーマン」を見かけるなり破顔一笑、これでも版を重ねたんやからおかしいもんですなあ、と語りかける。どれほどの時間が経ったであろうか、次から次へと吸いこまれるように渉猟してゆく司馬さんは通り一遍の本には手を出さない。由利公正の「実業談話」のような薄い本を目敏く見つけて繰って見る。こういう本が役に立つでしょう、と言いながら、主として雑書に注目されるのが嬉しい。夕刻に及び池田の老舗で鰻の御馳走になった。そのあと暫くして文芸春秋の西永達夫さんから電話があった。・・・何事ならんと思いながらお聞きすると、これが全くの驚きであった。今度『司馬遼太郎全集』第二期を刊行する。ついては全巻の解説を引き受けて欲しい。まことに光栄ですけれど、それは私の手に余ります、と答えたら、西永さんは次なる言葉を用意していた。司馬さんは、もし谷沢氏が辞退したら、いっそ解説なしでゆこうとおっしゃっているんですがねぇ、私は唸るような思いで決意せざるを得なかった。・・・あとから考えると、司馬さんは、私に解説を任せようかと案じながら、とりあえずは谷沢が平素の蒐書に、どれほどの心構えで準備しているかを、見届けに来られたのであるらしい。その証拠に、今度は我が家へと、声がかからなかったのがなんとも残念であった。・・・」
そこに永六輔氏が、ちょうど四百字詰め原稿用に一枚ほどの文を載せておりました。気になったので引用。
「花森さんは、我家に入ってきて 書棚の前に座った。
書棚を背にしたのではなく 書棚と向いあっていた。
そして沈黙。
背表紙とのニラメッコが始まった。
・・・・・・
・・・・・・
そして、うなづいたり 薄笑いをしたりしながら
本の背表紙を読んで 世間話をして帰っていった。
原稿依頼の話は それっきりになった。
・・・・・・
・・・・・・ 」(p212)
話をかえます。
谷沢永一氏が亡くなり、なぜか私は
渡部昇一氏の追悼文を3本も読めました。
産経新聞で、WILL5月号で、そしてVOICE5月号で。
その、すこしづつ違っている追悼文を読んだわけです。
ちょうど、今日読んだVOICEのには、こんな箇所が
「後年、谷沢先生の有名な書庫をぜひ拝見させていただきたいと思い・・先生のご自宅に出向いたこともある。有名な書庫については、これこそ司馬遼太郎氏も訪れて感心し、司馬遼太郎全集の解説を委託したという逸話があるほどで、私があれこれいう必要はない。だがあの書庫での時間は、同じく本の蒐集を楽しむ者として、これ以上ない至福の時であった。」
そういえば、谷沢永一著「司馬遼太郎」(PHP研究所)という一冊があるのでした。カバーの装画は谷澤美智子。司馬遼太郎が亡くなってから、次々に書いていった谷沢永一氏による追悼文と追悼対談をまとめた一冊(編集は山野博史)。この本に「司馬さんの見舞状」という文があるのでした。それは「阪神大震災では、私も致命的な打撃を受けた」とはじまっておりました。そしてその際、司馬さんから速達の書翰が届いたとあり、この「司馬さんの見舞状」では、その書翰全文が掲げられておりました(うん。そこも引用したいのですが、ここはやめときます)。その全文を谷沢氏が引用したあとに、こうありました。
「このように書き写しながら、いま私の手は震えている。また泣きたくなっている私の気持ちを、どうにも適切に表現できない。瞑目して話題を若干の注釈に移すとしよう。
司馬さんは一度だけ我が家を訪れられたことがある。昭和57年の秋であったか、産経大阪文化部の端山文昭さんを通じて司馬さんからの提案があった。お互い古書の蒐集に意を用いている同志の誼(よしみ)から、両家の書庫を交互に覗き見るのもまた一興と思うので、とりあえずは谷沢家の書庫を拝見したいから、適当な日時を示して欲しい。・・・とても人様を御案内できるような状態ではないのだが、相手が司馬さんとなれば話は別である。或る日の午後二時頃、端山さんの案内でお越しいただいた。・・・・とにかく書庫へ、と促されて案内したところ、司馬さんの本好きは、これはもう他に見られぬほど筋金入りである。ざっとひとわたり見渡すというような呼吸ではない。手近なところから目にとまった一冊また一冊と、いとおしむように引きだしていちいち開けてみる。これは珍しいですなあ、こんな本も蒐めたはるんやなあ、そういう風に感想を述べながら、書棚の前を立ちどまり立ちどまりしながら移動してゆく。福田定一の本名で書いた最初の著書「名言随筆・サラリーマン」を見かけるなり破顔一笑、これでも版を重ねたんやからおかしいもんですなあ、と語りかける。どれほどの時間が経ったであろうか、次から次へと吸いこまれるように渉猟してゆく司馬さんは通り一遍の本には手を出さない。由利公正の「実業談話」のような薄い本を目敏く見つけて繰って見る。こういう本が役に立つでしょう、と言いながら、主として雑書に注目されるのが嬉しい。夕刻に及び池田の老舗で鰻の御馳走になった。そのあと暫くして文芸春秋の西永達夫さんから電話があった。・・・何事ならんと思いながらお聞きすると、これが全くの驚きであった。今度『司馬遼太郎全集』第二期を刊行する。ついては全巻の解説を引き受けて欲しい。まことに光栄ですけれど、それは私の手に余ります、と答えたら、西永さんは次なる言葉を用意していた。司馬さんは、もし谷沢氏が辞退したら、いっそ解説なしでゆこうとおっしゃっているんですがねぇ、私は唸るような思いで決意せざるを得なかった。・・・あとから考えると、司馬さんは、私に解説を任せようかと案じながら、とりあえずは谷沢が平素の蒐書に、どれほどの心構えで準備しているかを、見届けに来られたのであるらしい。その証拠に、今度は我が家へと、声がかからなかったのがなんとも残念であった。・・・」