産経新聞4月16日(土曜日)には、「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」が掲載されておりました。そのはじまりは、
「『週刊文春』(4月21日号)は『東京電力「福島第一原発」の反乱』と相変わらず東京電力批判を繰り返しているし、『週刊現代』(4/23)は『放射能汚染列島「20年後の発病」その危険性』などと原発、放射能の恐怖を煽るような記事ばかり。もう少し冷静な報道を望みたい。先週も書いたが、『週刊ポスト』が今週(4/22)も抑制の効いた報道ぶりで際立っている。」
その例が並ぶのですが、ひとつ引用。
「『煽り報道』は、溶け出した燃料が容器も溶かして地中に深く浸透していくと指摘し、『いわゆるチャイナシンドローム(地球の裏側まで届くような深刻な放射線被害)と言われるような現象』などと書く。『チャイナシンドローム』とは、〈起きもしない問題を大袈裟に騒ぐこと〉を揶揄するジョークの表現だが、わかって書いているのだろうか」
う~ん支那ジョーク。
そういえば、週刊新潮(4/21)の高山正之の連載「変見自在」は、こうはじまっておりました。
「大阪空港に着陸したYS11が滑走路を飛び出し、タクシーウェー(taxiway)に突っ込んだ。乗客乗員に怪我はなかった。毎日新聞はこれを『YS機、タクシー専用道路に突っ込む』と報じた。タクシーウェーは誘導路のこと。毎日はご丁寧に事故当時『タクシーは走っていなかった、巻き添え事故は避けられた』と書いた。エジプト航空機がニューヨークを離陸後、間もなく大西洋に突っ込んだ。副操縦士が乗員乗客200余人を道連れにしたあちら版片桐機長事件だが、特異なのは遺体がほとんど回収できなかったことだ。そんな中でアホなNHKが『18遺体を確認』とやった。なんかの間違いと誰もが思ったものだが、結果はやっぱり大間違い。勤務明け乗務員が平服で客席に座って帰るのをdeadheadという。それが18人。NHKは18個の死に首が上がったと思い込んだのだ。報道にも専門知識が必要な時代だ。半可通では『恥を書く』ことになる。」
このあとに、高山氏は、「その意味で出色だったのが朝日新聞の原発専門編集委員、竹内敬二の記事だ。・・・いい加減な嘘を並べて世間を騒がせ、東電叩きを煽る。いい趣味ではない。・・・」
まあ、あとは読んでのお楽しみ。
だからって、朝日新聞を捜して読む趣味はないし。
ところで、週刊ポストのコラムに
大前研一氏の名前があります。
4月22日号には
大前研一の「〈計画停電〉〈出荷停止〉〈避難指示〉で二次被害を生み出した政府の大罪」という文がありました。隔週掲載には曽野綾子氏のコラムも週刊ポストにはありました。
ここで、ちょっと話題を変えます。
昨日、テレビを見ていたらドナルド・キーン氏が日本にいる外国人が国外へ脱出していることを踏まえながら、日本国籍を取得すると語っておりました。残念ながら今日の産経新聞にはドナルド・キーン氏の記事はなし。
もうちょっと詳しく内容を知りたかったのに残念。
読売新聞には掲載されていたかなあ。そういえば、
ドナルド・キーンの「私と20世紀のクロニクル」は読売新聞に連載されたのでした。
その連載のなかに「41 司馬遼太郎の『冗談』から駒」という箇所がありました。
そこからの引用。
「1982年、朝日新聞の後援で『緑樹』をテーマに会議が開かれた。都会生活における緑の重要性が、発言者すべてによって力説された。さすがに、樹木の大量伐採を提唱する人は誰もいなかった。参加者たちは終了後、お礼に料亭に招待され、そこには鰻と、ふんだんな酒が彼らを待っていた。宴の途中で、座敷の上席にあたる席に座っていた司馬遼太郎が立ち上がり、下座にいる朝日の編集局長の方にやって来た。見るからに司馬は、かなり酒を飲んでいた。彼は大きな声で、『朝日は駄目だ』と言った。編集局長は、当然のことながらびっくりした。司馬は続けた。『明治時代、朝日は駄目だった。しかし夏目漱石を雇うことで良い新聞になった。今、朝日を良い新聞にする唯一の方法は、ドナルド・キーンを雇うことだ』と。・・・・しかしながら私たちは、誰もが司馬の発言を酒の上での冗談と受け取った。私は自分が第二の夏目漱石のような大層な役割を果たすことなど、まったく不可能だということを知っていた。しかし一週間ほど経って、永井道雄(当時、朝日の論説委員だった)が私に告げたのは、朝日が司馬の助言に従うことに決めたということだった。・・・最初の連載
『百代の過客』は・・・・」
ついでに、司馬さんはドナルド・キーンをどう語っていたか。
「司馬遼太郎が考えたこと 11」に「キーンさんの学問と芸術」がありました。
そこから、すこし引用。
「・・・キーン先生の学問的業績というようなものは、たいへんなものであります。さらにはゆたかな芸術鑑賞の感覚と、まれなほどの芸術的文章の才をあわせもっていらっしゃるのです。こういう人を、神様は一世紀に何人も生みださないと思うのですが、そういう方が、よりにもよって、当時、世界文学の中でも辺境ともいうべき日本文学を専攻してくださったことは、日本にとっても、近松などにとっても、なんとしあわせなことであったでしょう。おそらくこのようなかたはもう二度とお出にならないということは、みなさんも思っていらっしゃるだろうと思います。・・・キーン先生は、年齢でいいますと、私より一つ上であります。そしてあのまことに不幸であった戦争に私も駆り出されまして、キーン先生も駆り出されまして、私が先生にお会いした時は、互いに、およそ兵隊、軍人にむかない人間がここに二人、かつての戦争の戦友としてあいまみえることにやや感動を覚えたことがあります。・・」
谷沢永一氏の言葉が浮かんだり、
今回はドナルド・キーン氏。そうおもうにつけ。
司馬遼太郎氏が今生きておられたら、この大震災をどう語られるのだろうなあ。申しわけありません。つい、そんなことが頭をかすめました。
「『週刊文春』(4月21日号)は『東京電力「福島第一原発」の反乱』と相変わらず東京電力批判を繰り返しているし、『週刊現代』(4/23)は『放射能汚染列島「20年後の発病」その危険性』などと原発、放射能の恐怖を煽るような記事ばかり。もう少し冷静な報道を望みたい。先週も書いたが、『週刊ポスト』が今週(4/22)も抑制の効いた報道ぶりで際立っている。」
その例が並ぶのですが、ひとつ引用。
「『煽り報道』は、溶け出した燃料が容器も溶かして地中に深く浸透していくと指摘し、『いわゆるチャイナシンドローム(地球の裏側まで届くような深刻な放射線被害)と言われるような現象』などと書く。『チャイナシンドローム』とは、〈起きもしない問題を大袈裟に騒ぐこと〉を揶揄するジョークの表現だが、わかって書いているのだろうか」
う~ん支那ジョーク。
そういえば、週刊新潮(4/21)の高山正之の連載「変見自在」は、こうはじまっておりました。
「大阪空港に着陸したYS11が滑走路を飛び出し、タクシーウェー(taxiway)に突っ込んだ。乗客乗員に怪我はなかった。毎日新聞はこれを『YS機、タクシー専用道路に突っ込む』と報じた。タクシーウェーは誘導路のこと。毎日はご丁寧に事故当時『タクシーは走っていなかった、巻き添え事故は避けられた』と書いた。エジプト航空機がニューヨークを離陸後、間もなく大西洋に突っ込んだ。副操縦士が乗員乗客200余人を道連れにしたあちら版片桐機長事件だが、特異なのは遺体がほとんど回収できなかったことだ。そんな中でアホなNHKが『18遺体を確認』とやった。なんかの間違いと誰もが思ったものだが、結果はやっぱり大間違い。勤務明け乗務員が平服で客席に座って帰るのをdeadheadという。それが18人。NHKは18個の死に首が上がったと思い込んだのだ。報道にも専門知識が必要な時代だ。半可通では『恥を書く』ことになる。」
このあとに、高山氏は、「その意味で出色だったのが朝日新聞の原発専門編集委員、竹内敬二の記事だ。・・・いい加減な嘘を並べて世間を騒がせ、東電叩きを煽る。いい趣味ではない。・・・」
まあ、あとは読んでのお楽しみ。
だからって、朝日新聞を捜して読む趣味はないし。
ところで、週刊ポストのコラムに
大前研一氏の名前があります。
4月22日号には
大前研一の「〈計画停電〉〈出荷停止〉〈避難指示〉で二次被害を生み出した政府の大罪」という文がありました。隔週掲載には曽野綾子氏のコラムも週刊ポストにはありました。
ここで、ちょっと話題を変えます。
昨日、テレビを見ていたらドナルド・キーン氏が日本にいる外国人が国外へ脱出していることを踏まえながら、日本国籍を取得すると語っておりました。残念ながら今日の産経新聞にはドナルド・キーン氏の記事はなし。
もうちょっと詳しく内容を知りたかったのに残念。
読売新聞には掲載されていたかなあ。そういえば、
ドナルド・キーンの「私と20世紀のクロニクル」は読売新聞に連載されたのでした。
その連載のなかに「41 司馬遼太郎の『冗談』から駒」という箇所がありました。
そこからの引用。
「1982年、朝日新聞の後援で『緑樹』をテーマに会議が開かれた。都会生活における緑の重要性が、発言者すべてによって力説された。さすがに、樹木の大量伐採を提唱する人は誰もいなかった。参加者たちは終了後、お礼に料亭に招待され、そこには鰻と、ふんだんな酒が彼らを待っていた。宴の途中で、座敷の上席にあたる席に座っていた司馬遼太郎が立ち上がり、下座にいる朝日の編集局長の方にやって来た。見るからに司馬は、かなり酒を飲んでいた。彼は大きな声で、『朝日は駄目だ』と言った。編集局長は、当然のことながらびっくりした。司馬は続けた。『明治時代、朝日は駄目だった。しかし夏目漱石を雇うことで良い新聞になった。今、朝日を良い新聞にする唯一の方法は、ドナルド・キーンを雇うことだ』と。・・・・しかしながら私たちは、誰もが司馬の発言を酒の上での冗談と受け取った。私は自分が第二の夏目漱石のような大層な役割を果たすことなど、まったく不可能だということを知っていた。しかし一週間ほど経って、永井道雄(当時、朝日の論説委員だった)が私に告げたのは、朝日が司馬の助言に従うことに決めたということだった。・・・最初の連載
『百代の過客』は・・・・」
ついでに、司馬さんはドナルド・キーンをどう語っていたか。
「司馬遼太郎が考えたこと 11」に「キーンさんの学問と芸術」がありました。
そこから、すこし引用。
「・・・キーン先生の学問的業績というようなものは、たいへんなものであります。さらにはゆたかな芸術鑑賞の感覚と、まれなほどの芸術的文章の才をあわせもっていらっしゃるのです。こういう人を、神様は一世紀に何人も生みださないと思うのですが、そういう方が、よりにもよって、当時、世界文学の中でも辺境ともいうべき日本文学を専攻してくださったことは、日本にとっても、近松などにとっても、なんとしあわせなことであったでしょう。おそらくこのようなかたはもう二度とお出にならないということは、みなさんも思っていらっしゃるだろうと思います。・・・キーン先生は、年齢でいいますと、私より一つ上であります。そしてあのまことに不幸であった戦争に私も駆り出されまして、キーン先生も駆り出されまして、私が先生にお会いした時は、互いに、およそ兵隊、軍人にむかない人間がここに二人、かつての戦争の戦友としてあいまみえることにやや感動を覚えたことがあります。・・」
谷沢永一氏の言葉が浮かんだり、
今回はドナルド・キーン氏。そうおもうにつけ。
司馬遼太郎氏が今生きておられたら、この大震災をどう語られるのだろうなあ。申しわけありません。つい、そんなことが頭をかすめました。