谷澤永一追悼集「朝のように花のように」(論創社)の
第一部「悼む」をパラパラとひらく。
そこに
「ジャーナリストの徳岡孝夫さんも言う。
『書きっぱなしでなく、変化を追っていました。短いゆえの切れがあるコラムが持ち味。箴言のようでした』」(p11)
うん。長年「紳士と淑女」の巻頭コラムを手がけた徳岡孝夫氏の言葉として、拝聴。
「教え子たちには
『いつ死んでもいいように、仕事は後回しにするな』と激励していたという。」(p10)
この言葉はp13にもありました。
「『いつ死んでもいいようにしておけ、後で書こうと思ってはダメだ、と言われたことが強く印象に残っています』(浦西さん)」
ここも引用しておかなければ。
「食通で名酒を愛した。ただし森本さんによれば、不器用でネクタイひとつ結べず、メカ音痴。唯一使える《IT機器》はファクスだけだったという。
生涯の著書は160冊近くに及ぶ。『読むことと書くことしかできない人でした。入院中も《頭の中で原稿を書いているんや。もう単行本二冊くらいはできたやろうなあ》と・・・』と妻の美智子さん。
東日本大震災直前の3月8日、心不全のため死去、81歳。・・・・」(p27)
ちなみに、あとがきには
「書名『朝のように 花のように』は開高健のことば『朝のように 花のように 水のように』から採った。」(p219)とあります。
そうそう。坪内祐三氏による追悼文には、谷沢永一著『紙つぶて 自作自注最終版』への言及があるのでした。
最終版には索引があるので、簡単にその箇所をさがせます。
それは、唯一、坪内祐三氏が登場する箇所なのでした。
そこからすこし引用。
「・・書評や書物随筆の醍醐味は、取り上げた一冊にこだわらず、それに関連する読書の話題を、適宜に繰り出す手法にある。この要点を忘れたら筆致が痩せ細って味気ない。」(p421)
第一部「悼む」をパラパラとひらく。
そこに
「ジャーナリストの徳岡孝夫さんも言う。
『書きっぱなしでなく、変化を追っていました。短いゆえの切れがあるコラムが持ち味。箴言のようでした』」(p11)
うん。長年「紳士と淑女」の巻頭コラムを手がけた徳岡孝夫氏の言葉として、拝聴。
「教え子たちには
『いつ死んでもいいように、仕事は後回しにするな』と激励していたという。」(p10)
この言葉はp13にもありました。
「『いつ死んでもいいようにしておけ、後で書こうと思ってはダメだ、と言われたことが強く印象に残っています』(浦西さん)」
ここも引用しておかなければ。
「食通で名酒を愛した。ただし森本さんによれば、不器用でネクタイひとつ結べず、メカ音痴。唯一使える《IT機器》はファクスだけだったという。
生涯の著書は160冊近くに及ぶ。『読むことと書くことしかできない人でした。入院中も《頭の中で原稿を書いているんや。もう単行本二冊くらいはできたやろうなあ》と・・・』と妻の美智子さん。
東日本大震災直前の3月8日、心不全のため死去、81歳。・・・・」(p27)
ちなみに、あとがきには
「書名『朝のように 花のように』は開高健のことば『朝のように 花のように 水のように』から採った。」(p219)とあります。
そうそう。坪内祐三氏による追悼文には、谷沢永一著『紙つぶて 自作自注最終版』への言及があるのでした。
最終版には索引があるので、簡単にその箇所をさがせます。
それは、唯一、坪内祐三氏が登場する箇所なのでした。
そこからすこし引用。
「・・書評や書物随筆の醍醐味は、取り上げた一冊にこだわらず、それに関連する読書の話題を、適宜に繰り出す手法にある。この要点を忘れたら筆致が痩せ細って味気ない。」(p421)