橋本武著「伝説の灘校国語教師の『学問のすすめ』」(PHP)の最後の第三部は「教養と伝統文化を楽しむ」と題して、「いろは歌留多 上方・中京・江戸」を載せておりました。
う~ん。今日思い浮かんだのは、学問のいろは、ということでした。
それについて、思い浮かぶイメージは「高校生」。
たとえば、池上彰著「学び続ける力」(講談社現代新書)に
こんな箇所がありました。
「私の著書は、いろいろな世代向けがありますが、たとえば『そうだったのか!現代史』のシリーズは、高校生の読者を念頭に書いています。いまの高校生は東西冷戦も、ソビエト連邦も、ましてベルリンの壁も実感としてわかりません。『高校生には何がわからないのか』と考えながら、そんな彼らに向けて、『実はこんなことがあったんだよ』と語りかけるつもりでいます。
高校生でもわかるように書けば、それ以外の年代の人も読んでくれます。
ただし、『高校生向けだからレベルを落とす』ということはありえません。高校生には相当の理解力があります。表現はやさしく、扱う内容は高度なものに。これがポイントです。」(p141)
「高校生」といえば、
私に思い浮かぶのが、
板坂元著「続考える技術・書く技術」(講談社現代新書1977年発行・これ今は絶版)でした。福澤諭吉の文章の心掛けを紹介したあとに、こんな箇所がありました。
「福澤の話で思いだすのは、私たちが英文の百科事典を作るために書いた著者向けの執筆要領のことだ。英米の百科事典をいろいろと参考にして作った執筆要領の草稿は、日本のえらい先生からきびしい批判を受けた。その草稿の中に『高校一年生にも分かるように書いて欲しい』という箇所があって、そこが問題になった。『高校一年生とは情けない。せめてブリタニカ程度のものにすべきだ』という批評だった。これには閉口した。アメリカでは、百科事典を買うためのガイドブックが出ていて、それぞれの百科事典のレベルが示してある。それによると、ブリタニカやアメリカーナなどの有名なものは、すべて高校一年生以上に適するとなっている。私たちも、それにならったのだった。」
こうして、数行あとには、こうあります。
「・・明治以来西洋の文物を輸入するときに、有難がるクセがあって、文章も難しくする方が知的レベルが高いと誤信した形跡は十分にある。
そろそろ、そういう後進国根性を捨てて、文章も読みやすく分かりやすいものにしてもよい時代ではなかろうか。」(p170~171)
うん。そろそろ、そういう時代が到来したのだと、思ってもいいでしょうか。
うん。「いいとも」(笑)。
ついでに、
せっかくですから板坂元著「考える技術・書く技術」(講談社現代新書・表紙カバーがかわった際に、こちらは再版されて現在も買えると思います)からも、すこし引用。
「いつか、大宅壮一が海外の対日感情の調査旅行から帰って、『世界中の反日感情を調べて回ったが、反日感情のいちばん強いのは日本だった』と警句を吐いたことがある。なるほど、東南アジアの対日感情が悪くなった今日でも、日本の綜合雑誌ほど日本批判を熱心にやっているものはほかにはなさそうだ。・・・外にいつも頭のあがらない文化があるが故の劣等感、それが裏がえしになった悪口であり批判であった、と考えられる。インテリにその現象がはなはだしいのは、インテリの方が外に対する劣等感を強く持っているせいであろう。」(p141)
こういう反日感情を捨ててもいい時代は、
現在なのだと、思ってもいいかい?
「いいとも」(笑)。
うん。もどって
橋本武氏の「学問のすすめ」のなかに
コラム②「『書く力』をつける練習法」(p63~65)
という箇所がありました。
こうはじまります。
「国語の勉強の基本は『読むこと』と『書くこと』です。なかでも書くことは大切で、私は『読むこと』が『書くこと』につながることを重視してきました。そのための具体的な練習方法をご紹介しましょう。」
1 読後感を書く
2 日記をつけること
3 詩や歌を作ること
ここでは「詩や歌を作ること」の全文を引用しておきます。
「思ったことを自由に書くだけでなく、詩や短歌、俳句・川柳やいろは歌留多などの形式にまとめることも、書く力を増します。短い形式の中に、言いたいことや感じたことを表現することで、言葉の選び方やリズム、音の流れも考えるようになります。語彙が豊富になりますし、流暢な表現が得られるようになるでしょう。
とにかく難しく考えず、見たこと聞いたこと、感じたこと考えたことを何でも文章にしてみることです。文章を書くことによって、批評眼、鑑賞眼が養われるのです。」
うん。引用はこれでいいかな?
う~ん。今日思い浮かんだのは、学問のいろは、ということでした。
それについて、思い浮かぶイメージは「高校生」。
たとえば、池上彰著「学び続ける力」(講談社現代新書)に
こんな箇所がありました。
「私の著書は、いろいろな世代向けがありますが、たとえば『そうだったのか!現代史』のシリーズは、高校生の読者を念頭に書いています。いまの高校生は東西冷戦も、ソビエト連邦も、ましてベルリンの壁も実感としてわかりません。『高校生には何がわからないのか』と考えながら、そんな彼らに向けて、『実はこんなことがあったんだよ』と語りかけるつもりでいます。
高校生でもわかるように書けば、それ以外の年代の人も読んでくれます。
ただし、『高校生向けだからレベルを落とす』ということはありえません。高校生には相当の理解力があります。表現はやさしく、扱う内容は高度なものに。これがポイントです。」(p141)
「高校生」といえば、
私に思い浮かぶのが、
板坂元著「続考える技術・書く技術」(講談社現代新書1977年発行・これ今は絶版)でした。福澤諭吉の文章の心掛けを紹介したあとに、こんな箇所がありました。
「福澤の話で思いだすのは、私たちが英文の百科事典を作るために書いた著者向けの執筆要領のことだ。英米の百科事典をいろいろと参考にして作った執筆要領の草稿は、日本のえらい先生からきびしい批判を受けた。その草稿の中に『高校一年生にも分かるように書いて欲しい』という箇所があって、そこが問題になった。『高校一年生とは情けない。せめてブリタニカ程度のものにすべきだ』という批評だった。これには閉口した。アメリカでは、百科事典を買うためのガイドブックが出ていて、それぞれの百科事典のレベルが示してある。それによると、ブリタニカやアメリカーナなどの有名なものは、すべて高校一年生以上に適するとなっている。私たちも、それにならったのだった。」
こうして、数行あとには、こうあります。
「・・明治以来西洋の文物を輸入するときに、有難がるクセがあって、文章も難しくする方が知的レベルが高いと誤信した形跡は十分にある。
そろそろ、そういう後進国根性を捨てて、文章も読みやすく分かりやすいものにしてもよい時代ではなかろうか。」(p170~171)
うん。そろそろ、そういう時代が到来したのだと、思ってもいいでしょうか。
うん。「いいとも」(笑)。
ついでに、
せっかくですから板坂元著「考える技術・書く技術」(講談社現代新書・表紙カバーがかわった際に、こちらは再版されて現在も買えると思います)からも、すこし引用。
「いつか、大宅壮一が海外の対日感情の調査旅行から帰って、『世界中の反日感情を調べて回ったが、反日感情のいちばん強いのは日本だった』と警句を吐いたことがある。なるほど、東南アジアの対日感情が悪くなった今日でも、日本の綜合雑誌ほど日本批判を熱心にやっているものはほかにはなさそうだ。・・・外にいつも頭のあがらない文化があるが故の劣等感、それが裏がえしになった悪口であり批判であった、と考えられる。インテリにその現象がはなはだしいのは、インテリの方が外に対する劣等感を強く持っているせいであろう。」(p141)
こういう反日感情を捨ててもいい時代は、
現在なのだと、思ってもいいかい?
「いいとも」(笑)。
うん。もどって
橋本武氏の「学問のすすめ」のなかに
コラム②「『書く力』をつける練習法」(p63~65)
という箇所がありました。
こうはじまります。
「国語の勉強の基本は『読むこと』と『書くこと』です。なかでも書くことは大切で、私は『読むこと』が『書くこと』につながることを重視してきました。そのための具体的な練習方法をご紹介しましょう。」
1 読後感を書く
2 日記をつけること
3 詩や歌を作ること
ここでは「詩や歌を作ること」の全文を引用しておきます。
「思ったことを自由に書くだけでなく、詩や短歌、俳句・川柳やいろは歌留多などの形式にまとめることも、書く力を増します。短い形式の中に、言いたいことや感じたことを表現することで、言葉の選び方やリズム、音の流れも考えるようになります。語彙が豊富になりますし、流暢な表現が得られるようになるでしょう。
とにかく難しく考えず、見たこと聞いたこと、感じたこと考えたことを何でも文章にしてみることです。文章を書くことによって、批評眼、鑑賞眼が養われるのです。」
うん。引用はこれでいいかな?