日経新聞2012年7月21日文化欄に
「柳田民俗学 震災後を問う」とあります。
柳田国男が亡くなって、没後50年の記念行事にあわせての掲載なのでした。さてっと、そこにはこんな箇所があります。
「そんな柳田の姿勢を、よく示す例が、1945年4月から5月、東京の片隅で連日の空襲警報の中で書き継いだ『先祖の話』である。季刊誌『考える人』に『柳田国男、今いずこ』を連載している宗教学者の山折哲雄氏は、次のように書いている。『この廃墟のような大東京において、死者たちの魂はどこに行ってしまったのか。どのようなタマシイの通い路をたどって、あの先祖たちの憩う世界に還っていくのか、柳田の思いはしだいにその一点に収斂していったにちがいない』
日本の祖霊信仰の姿を説く『先祖の話』は、戦死者の霊を鎮め、動揺する人心を慰めたいという思いに支えられていた。・・・」
という箇所が気になっております。
それでは、これから未読の柳田国男を読み始めることができますように。
これを、キッカケにしてすこしでも読み始めたいと思うのでした。
畑中章宏著「柳田国男と今和次郎」(平凡社新書・2011年11月)は、副題が「災害に向き合う民俗学」となっております。
まずは、これからとひらくと、
紀行文「二十五箇年後」の引用がありました。
「たびたび津波災害に襲われた、唐桑半島の記録として価値をもつ」と指摘して引用されたその箇所を孫引き。
「・・智恵のある人は臆病になってしまったという。元の屋敷を見棄てて高みへ上った者は、それゆえにもうよほど以前から後悔をしている。これに反してつとに経験を忘れ、またはそれよりも食うが大事だと、ずんずん浜辺近く出た者は、漁業にも商売にも大きな便宜を得ている。あるいはまた他処からやって来て、委細構わず勝手な処に住む者もあって、結局村落の形は元のごとく、人の数も海嘯の前よりはずっと多い。・・・」(p62)
たしか、高山文彦著「大津波を生きる」(新潮社・2012年11月)にも、浜辺を選択した田老への言及があるのでした。
これをキッカケに、柳田国男全集に触れもせず、ということがないようにしたい。と、ここに書いておきます。
「柳田民俗学 震災後を問う」とあります。
柳田国男が亡くなって、没後50年の記念行事にあわせての掲載なのでした。さてっと、そこにはこんな箇所があります。
「そんな柳田の姿勢を、よく示す例が、1945年4月から5月、東京の片隅で連日の空襲警報の中で書き継いだ『先祖の話』である。季刊誌『考える人』に『柳田国男、今いずこ』を連載している宗教学者の山折哲雄氏は、次のように書いている。『この廃墟のような大東京において、死者たちの魂はどこに行ってしまったのか。どのようなタマシイの通い路をたどって、あの先祖たちの憩う世界に還っていくのか、柳田の思いはしだいにその一点に収斂していったにちがいない』
日本の祖霊信仰の姿を説く『先祖の話』は、戦死者の霊を鎮め、動揺する人心を慰めたいという思いに支えられていた。・・・」
という箇所が気になっております。
それでは、これから未読の柳田国男を読み始めることができますように。
これを、キッカケにしてすこしでも読み始めたいと思うのでした。
畑中章宏著「柳田国男と今和次郎」(平凡社新書・2011年11月)は、副題が「災害に向き合う民俗学」となっております。
まずは、これからとひらくと、
紀行文「二十五箇年後」の引用がありました。
「たびたび津波災害に襲われた、唐桑半島の記録として価値をもつ」と指摘して引用されたその箇所を孫引き。
「・・智恵のある人は臆病になってしまったという。元の屋敷を見棄てて高みへ上った者は、それゆえにもうよほど以前から後悔をしている。これに反してつとに経験を忘れ、またはそれよりも食うが大事だと、ずんずん浜辺近く出た者は、漁業にも商売にも大きな便宜を得ている。あるいはまた他処からやって来て、委細構わず勝手な処に住む者もあって、結局村落の形は元のごとく、人の数も海嘯の前よりはずっと多い。・・・」(p62)
たしか、高山文彦著「大津波を生きる」(新潮社・2012年11月)にも、浜辺を選択した田老への言及があるのでした。
これをキッカケに、柳田国男全集に触れもせず、ということがないようにしたい。と、ここに書いておきます。