和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ツボ、これは。

2013-03-14 | 短文紹介
昨日は、注文してあった谷澤永一追悼集「朝のように花のように」論創社がとどいていた。
浦西和彦・増田周子編となっております。
昨日読もうとしたのですが、あいかわらずの読み下手なので、丸谷才一氏の追悼文を読んだら、それから先、読み進む気がしなくなりました。
そういえば、と思い浮かぶのは、谷澤永一氏の本が、それが文庫になった際にも、あとがきなどで、短いながらも、谷澤氏の新しい文に出会えて嬉しかったことを覚えております。もう、そういう機会はなくなってしまった。あらためて谷澤永一氏の不在に思いいたるのでした。追悼。


今日の産経新聞をひらくと、文化欄に坪内祐三氏が、山口昌男さんへの追悼文を寄せております。ちょっとそこから引用。

「山口先生は早起きだ。」
とあります。
「1990年秋、『東京人』をやめ、第2次ニート時代に入ったら、毎日のように朝8時頃、先生から電話がかかってきた。その電話も楽しみだった。
当時・・『「敗者」の精神史』が始まるところだった。電話の内容はその連載の資料に関することだった。山口先生の電話に私が、それはこういう風につながって行くのではないですか、と言うと、先生が、ツボ(先生はいつも私のことをこう呼んだ)凄いな、それ何で読んだんだ、と問いただされたので、私は、それ、先生が4日前の電話でおっしゃっていたのですよ、と答えた。こういうやりとりが何度もあったので山口先生は私のことをツボは私の外部記憶装置、と呼ぶようになった。もちろん古書店や古書展も共にした。」

そのあとも、引用してしまいましょう(笑)。

「世間的にはまったく無名で何の肩書きもない私を先生のゴリ押しで京都の国際日本文化研究センターの研究員に交ぜてもらい・・・同じ頃、福島県奥会津の昭和村に廃校を借り受け、毎年、泊まり込みで長期イベントを行った。・・・京都へと会津への興味が重なって、山口先生はある人物たちを発見した。
それは山本覚馬と八重の兄妹を中心とした明治維新の『敗者』で京都の近代を造っていった人々だ。
ツボ、これはNHKの大河ドラマになるな、と先生は言った。20年前のことだ。・・・・・」

居ながらにして今朝は追悼文を読めて嬉しかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする