朝日の古新聞をもらってくる。
3月12日に掲載されている、天皇陛下「おことば」を、
朝日新聞はどのページのどこに配置したのか?
その不自然さ。
卒業式に起立しない先生みたいな、おかしなへそ曲がりぶりを、
朝日新聞は表現していて、悲しくなります。
かなしい朝日。ここでは、それを指摘するだけにします。
さてっと、気をとりもどして、
3月12日には、文化欄に
中沢新一氏による山口昌男さんの追悼文がありました。
はじまりは
「私たちの世代にとって、山口昌男はじつに偉大な解放者だった。1970年代、世の中ではきまじめであることが美徳とされ、自分のしていることは正しいと誰もが思いたがっていた。その時代に山口昌男は知識人たちに向かって、そんなつまらない美徳は捨てて、創造的な『いたずら者』になれ、と呼びかけたのである。」
真ん中はカットして、
最後を引用しておわりましょう。
「とにかくよく笑う人だった。とりわけアカデミズムの権威などを前にすると、ますますよく笑い、からかい、そのために相手を怒らせることもしばしばだった。笑う山口昌男のまわりで、世界はいつもダイナミックに揺れていた。
世の中が安直な笑いであふれかえり、矮小化された『いたずら者』が跋扈する時代になると、さすがのこの人も不調に陥った。ところがしばらくすると、今度は『敗者』に身をやつして再登場したのにはたまげた。負け組のほうが豊かな人生が送れるぞ。マネーや力の世界への幻想を嗤う、なんともエレガントな闘いぶりであった。
こんなわけで、山口昌男は私にとって、まさに一人のモーツァルトであったのだ。『サリエリにはなるなよ』との師の遺訓にしたがって、私は青空のような素直さをもって、この知のモーツァルトの人生の航跡を誉め讃えようと思う。山口さん、またどこかでお会いしよう。」
師の遺訓というのは、山口昌男氏が中沢新一に語ったものなのでしょうか?もし、そうだとすると、孔子が相手に対して、それぞれに的確な言葉をあたえたように・・・・。
3月12日に掲載されている、天皇陛下「おことば」を、
朝日新聞はどのページのどこに配置したのか?
その不自然さ。
卒業式に起立しない先生みたいな、おかしなへそ曲がりぶりを、
朝日新聞は表現していて、悲しくなります。
かなしい朝日。ここでは、それを指摘するだけにします。
さてっと、気をとりもどして、
3月12日には、文化欄に
中沢新一氏による山口昌男さんの追悼文がありました。
はじまりは
「私たちの世代にとって、山口昌男はじつに偉大な解放者だった。1970年代、世の中ではきまじめであることが美徳とされ、自分のしていることは正しいと誰もが思いたがっていた。その時代に山口昌男は知識人たちに向かって、そんなつまらない美徳は捨てて、創造的な『いたずら者』になれ、と呼びかけたのである。」
真ん中はカットして、
最後を引用しておわりましょう。
「とにかくよく笑う人だった。とりわけアカデミズムの権威などを前にすると、ますますよく笑い、からかい、そのために相手を怒らせることもしばしばだった。笑う山口昌男のまわりで、世界はいつもダイナミックに揺れていた。
世の中が安直な笑いであふれかえり、矮小化された『いたずら者』が跋扈する時代になると、さすがのこの人も不調に陥った。ところがしばらくすると、今度は『敗者』に身をやつして再登場したのにはたまげた。負け組のほうが豊かな人生が送れるぞ。マネーや力の世界への幻想を嗤う、なんともエレガントな闘いぶりであった。
こんなわけで、山口昌男は私にとって、まさに一人のモーツァルトであったのだ。『サリエリにはなるなよ』との師の遺訓にしたがって、私は青空のような素直さをもって、この知のモーツァルトの人生の航跡を誉め讃えようと思う。山口さん、またどこかでお会いしよう。」
師の遺訓というのは、山口昌男氏が中沢新一に語ったものなのでしょうか?もし、そうだとすると、孔子が相手に対して、それぞれに的確な言葉をあたえたように・・・・。