今日3月11日は、東日本大震災2年目。
産経新聞に一頁をつかって
9箇所の時計の写真が掲載されております。
それが印象に残るのでした。
題は「動かぬ針の証言」。
それは、地震があった2時48分のまま止まっている時計だったり。
別の写真には、こう説明がありました。
「岩手県山田町の海を望む高台に、壊れた大きな時計が飾られていた。針は津波に襲われた午後3時27分で止まり文字盤は焼け焦げ、震災被害の凄惨さを物語る・・・」
私に、思い浮かんだのは、
房総沖巨大地震として知られる
元禄地震と津波のことでした。
九十九里町らしいのですが、
「高橋家文書」が残されております。
そこに元禄地震と津波の記述がある。
当時は、時計も、腕時計もない
前年には、赤穂浪士の討ち入りがあった年です。
「元禄16年11月22日夜、子ノ刻ヨリ、俄ニ大地震ニテ揺リ返シ揺リ返シ表ニテ大タイコ打候如クニ鳴リヒビク、同丑ノ刻ニ大山ノ如ナル津波ニ三ノ浪続イテ入来ル、別テ二ノ波ツヨクシテ、家棟木共ニ押流サレ、大木ハ土手共ニ二三丁程モ流、逃人々之内ニテモ浪ニ追ツカレ、水ニ溺レ死スルモノ脇村ハ格別、当所ニテ百人余也、牛馬鶏犬マデ水ニ溺レ死ス、又、水ヲワケ出テモ寒気ニ綴レテ死ス者多シ、暁天ニ潮汐引退、哀ナルカナ骸ハ道路ニ累々トス、以来如斯ナル事、能々心得テ、家財ヲ捨迯(にげ)去ルベシ(後略)。」
ここには、
子の刻(午前0時)すぎに、大地震がおこり、
丑の刻(午前2時~4時)に、大山のごとき津波が三回も押し寄せ
とあるのでした。
もし、現在の時計があったなら、
はたして、地震から津波の間隔が2時間ということになったのかどうか?
何よりも、子の刻の次は丑の刻なので、そういう表示をしたのではなかったか?
それよりも、冬の真夜中
「水ヲワケ出テモ寒気ニ綴レテ死ス者多シ」という、
寒気と恐れとで、長短の時間感覚が、麻痺していたかもしれず、
30~40分を2時間にも感じられたのではなかったのかと、
東日本大震災のあとに、私は思ってみるわけです。
産経新聞に一頁をつかって
9箇所の時計の写真が掲載されております。
それが印象に残るのでした。
題は「動かぬ針の証言」。
それは、地震があった2時48分のまま止まっている時計だったり。
別の写真には、こう説明がありました。
「岩手県山田町の海を望む高台に、壊れた大きな時計が飾られていた。針は津波に襲われた午後3時27分で止まり文字盤は焼け焦げ、震災被害の凄惨さを物語る・・・」
私に、思い浮かんだのは、
房総沖巨大地震として知られる
元禄地震と津波のことでした。
九十九里町らしいのですが、
「高橋家文書」が残されております。
そこに元禄地震と津波の記述がある。
当時は、時計も、腕時計もない
前年には、赤穂浪士の討ち入りがあった年です。
「元禄16年11月22日夜、子ノ刻ヨリ、俄ニ大地震ニテ揺リ返シ揺リ返シ表ニテ大タイコ打候如クニ鳴リヒビク、同丑ノ刻ニ大山ノ如ナル津波ニ三ノ浪続イテ入来ル、別テ二ノ波ツヨクシテ、家棟木共ニ押流サレ、大木ハ土手共ニ二三丁程モ流、逃人々之内ニテモ浪ニ追ツカレ、水ニ溺レ死スルモノ脇村ハ格別、当所ニテ百人余也、牛馬鶏犬マデ水ニ溺レ死ス、又、水ヲワケ出テモ寒気ニ綴レテ死ス者多シ、暁天ニ潮汐引退、哀ナルカナ骸ハ道路ニ累々トス、以来如斯ナル事、能々心得テ、家財ヲ捨迯(にげ)去ルベシ(後略)。」
ここには、
子の刻(午前0時)すぎに、大地震がおこり、
丑の刻(午前2時~4時)に、大山のごとき津波が三回も押し寄せ
とあるのでした。
もし、現在の時計があったなら、
はたして、地震から津波の間隔が2時間ということになったのかどうか?
何よりも、子の刻の次は丑の刻なので、そういう表示をしたのではなかったか?
それよりも、冬の真夜中
「水ヲワケ出テモ寒気ニ綴レテ死ス者多シ」という、
寒気と恐れとで、長短の時間感覚が、麻痺していたかもしれず、
30~40分を2時間にも感じられたのではなかったのかと、
東日本大震災のあとに、私は思ってみるわけです。