竹山道雄著「昭和の精神史」に
あのころの大新聞のことを書いてあります。
あのころとは、
「外には満州事変がはじまっていた。
内には経済の不調や思想の混乱や社会の動揺がつづいて、
センセーショナルな危機感が来る年ごとに叫ばれた。
緊迫した半面に弛緩した、異様な変調な雰囲気がみなぎっていた。
関東震災を一つのエポックとして、
それまでは思いもよらなかったあたらしい社会相が現出した。
突如としてひらけた近代生活に対しては、
むかしから日本人がもっていた良識や節度は
ふしぎなくらい無力だった。」
その時期の大新聞を竹山道雄は
こう書いております。
「あのころは、世上に既成体制に対する不満が一杯だった。
見るもの聞くものが、政党・財閥・官僚に対するはげしい呪詛だった。
私はさる大新聞の寸言欄に、
『世界に三つの悪がある。
アメリカのギャングと、シナの軍閥と、日本の政党である』
と書いてあったのを覚えている。
こうしたことは数かぎりなかった。
旧日本は言論が不自由だったと今は信ぜられているが、
やがて拘束がはじまるまでの一頃は
それどころではなく、きわめて破壊的だった。
くる日もくる日も、
辛辣に、手軽に、巧妙に、無責任に、揶揄し罵倒する
言葉をきいて、すべての人々の頭にそれが浸み入った。
しかもなお、乱闘、汚職、醜悪な暴露・・・はあきれるほどつづいた。
分裂と混乱は見込みがないと思われた。
軍人の政党に対する不信反感は非常なもので、
これは最後まで消えなかった。」
「・・・五・一五事件の裁判だった。
白昼首相を殺した軍人の徒党が、軽い刑ですんだ。
明治時代だったら考えられないことだったろう
(封建時代には、赤穂浪士は切腹させられた)。
また、政治悪を憤慨する世論の背景がなくては
行なわれないことだったろう。
世人はその動機の純真に同情したのだった。」
このあとに、
竹山道雄氏は、その頃の、個人的な会話を
書き留めてくれております。
「私事にわたるけれども、
自分の小さな回想を記しておきたい。
岡田良平という枢密顧問がいて・・この人は私の伯父だった。
あの裁判がすすんでいるとき、
私は老人にこういった。
『青年将校たちは死刑になるべきでしょう』
老人は答えた。
『わしらも情としては忍びない気もしないではないが、
あれはどうしても死刑にしなくてはならぬ』
私はいった。
『しかし、もしそうと決したら、
仲間が機関銃をもちだして救けにくるから、
死刑にはできないだろうといいますが』
『そうかもしれぬ』
と老人はうなずいて、しばらく黙った。
そして、顔をあげて身をのりだして、
目に口悔しそうな光をうかべて
語気あらくいった。
『もしそんなことになったら、日本は亡びる』
そのとき私は
『亡びるというのは大袈裟だなあ――』と思った。
しかし、後になって
空襲のころにはよくこれを思い出した――
『やっぱりあれは大袈裟ではなかった』 」
以上は「昭和の精神史」の
「五 青年将校は天皇によって『天皇制』を仆そうとした」
に書かれております。
ちなみに、
竹山道雄の「昭和の精神史」は
「竹山道雄著作集1」に入っております。
その巻の解説は、林健太郎。
あと、講談社学術文庫の一冊に
竹山道雄著「昭和の精神史」があり、
その文庫解説は仙北谷晃一。
その文庫解説からすこし引用。
「『昭和の精神史』は『ビルマの竪琴』ほど華やいだ話題にならなかったが、著者の名を高からしめた著作である。表に立たないところで、水が大地にしみるような深い作用をした。・・雑誌『心』に連載(昭和30年8月~12月)された時は、『十年の後に――あれは何だったのだろう』という表題がついていた。このやや破格な感じがないでもない表題は、これら一連の文章を執筆された頃の先生の心境をむしろ率直に伝えているかと思う。・・・先生の著述のほとんどは、ことばの真の意味での『エッセイ』の彩りを濃く帯びているが、それがその時その時の精一杯の試みであることは、改めて記すまでもないだろう。本書もまたしかりである。」
古本で安く読むのでしたら、
文藝春秋の人と思想シリーズの一冊
竹山道雄著「時流に反して」が
私のおすすめ。
あのころの大新聞のことを書いてあります。
あのころとは、
「外には満州事変がはじまっていた。
内には経済の不調や思想の混乱や社会の動揺がつづいて、
センセーショナルな危機感が来る年ごとに叫ばれた。
緊迫した半面に弛緩した、異様な変調な雰囲気がみなぎっていた。
関東震災を一つのエポックとして、
それまでは思いもよらなかったあたらしい社会相が現出した。
突如としてひらけた近代生活に対しては、
むかしから日本人がもっていた良識や節度は
ふしぎなくらい無力だった。」
その時期の大新聞を竹山道雄は
こう書いております。
「あのころは、世上に既成体制に対する不満が一杯だった。
見るもの聞くものが、政党・財閥・官僚に対するはげしい呪詛だった。
私はさる大新聞の寸言欄に、
『世界に三つの悪がある。
アメリカのギャングと、シナの軍閥と、日本の政党である』
と書いてあったのを覚えている。
こうしたことは数かぎりなかった。
旧日本は言論が不自由だったと今は信ぜられているが、
やがて拘束がはじまるまでの一頃は
それどころではなく、きわめて破壊的だった。
くる日もくる日も、
辛辣に、手軽に、巧妙に、無責任に、揶揄し罵倒する
言葉をきいて、すべての人々の頭にそれが浸み入った。
しかもなお、乱闘、汚職、醜悪な暴露・・・はあきれるほどつづいた。
分裂と混乱は見込みがないと思われた。
軍人の政党に対する不信反感は非常なもので、
これは最後まで消えなかった。」
「・・・五・一五事件の裁判だった。
白昼首相を殺した軍人の徒党が、軽い刑ですんだ。
明治時代だったら考えられないことだったろう
(封建時代には、赤穂浪士は切腹させられた)。
また、政治悪を憤慨する世論の背景がなくては
行なわれないことだったろう。
世人はその動機の純真に同情したのだった。」
このあとに、
竹山道雄氏は、その頃の、個人的な会話を
書き留めてくれております。
「私事にわたるけれども、
自分の小さな回想を記しておきたい。
岡田良平という枢密顧問がいて・・この人は私の伯父だった。
あの裁判がすすんでいるとき、
私は老人にこういった。
『青年将校たちは死刑になるべきでしょう』
老人は答えた。
『わしらも情としては忍びない気もしないではないが、
あれはどうしても死刑にしなくてはならぬ』
私はいった。
『しかし、もしそうと決したら、
仲間が機関銃をもちだして救けにくるから、
死刑にはできないだろうといいますが』
『そうかもしれぬ』
と老人はうなずいて、しばらく黙った。
そして、顔をあげて身をのりだして、
目に口悔しそうな光をうかべて
語気あらくいった。
『もしそんなことになったら、日本は亡びる』
そのとき私は
『亡びるというのは大袈裟だなあ――』と思った。
しかし、後になって
空襲のころにはよくこれを思い出した――
『やっぱりあれは大袈裟ではなかった』 」
以上は「昭和の精神史」の
「五 青年将校は天皇によって『天皇制』を仆そうとした」
に書かれております。
ちなみに、
竹山道雄の「昭和の精神史」は
「竹山道雄著作集1」に入っております。
その巻の解説は、林健太郎。
あと、講談社学術文庫の一冊に
竹山道雄著「昭和の精神史」があり、
その文庫解説は仙北谷晃一。
その文庫解説からすこし引用。
「『昭和の精神史』は『ビルマの竪琴』ほど華やいだ話題にならなかったが、著者の名を高からしめた著作である。表に立たないところで、水が大地にしみるような深い作用をした。・・雑誌『心』に連載(昭和30年8月~12月)された時は、『十年の後に――あれは何だったのだろう』という表題がついていた。このやや破格な感じがないでもない表題は、これら一連の文章を執筆された頃の先生の心境をむしろ率直に伝えているかと思う。・・・先生の著述のほとんどは、ことばの真の意味での『エッセイ』の彩りを濃く帯びているが、それがその時その時の精一杯の試みであることは、改めて記すまでもないだろう。本書もまたしかりである。」
古本で安く読むのでしたら、
文藝春秋の人と思想シリーズの一冊
竹山道雄著「時流に反して」が
私のおすすめ。