文藝春秋の「人と思想」シリーズ。
その一冊・竹山道雄著「時流に反して」(昭和43年)は
ご本人が選んだ文で成り立っております。
その「あとがき」は
「戦中から戦後に書いたものから選んで、この一冊にした。未曽有の変動の時期だったから、もともと世事にはうとい私にも、考え感じることがたくさんあった。それで、ここに収録されたものには、ほとんどみな時代の動きが影を投じている。」とはじまっておりました。
そして、各章ごとについて筆者の思いを書き添えておられました。
「白磁の杯」の章についてでは、「昭和29年ごろは集団ヒステリーの頂点だった」とあるのでした。
う~ん。昭和29年頃というのが気になります。
ということで、平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)をひらいてみるのでした。
キーワードは、「竹山は1955(昭和30)年2月、戦後はじめて国外に出・・」(p319)であり、
「戦後は1955(昭和30)年から竹山道雄は毎年のように海外へ長く出かけた。1964(昭和39)年までのわが国は外貨持出制限があり、先方からの招待がなければ出国できない時期が長く続いた。日本の一部でソ連邦の理想化や人民中国の理想化が行なわれたのは、その土地へ行く人が数少なかったからこそ生まれた幻影だったといってよい。それだけに竹山の例外的な体験は当時の日本人としてはまことに貴重であった。・・・著述家として世間に認められようとして時流に媚びることをしなかったからである。そのために時に日本国内の論壇では孤立しているかに見えたが、しかしそうであったからこそ、日本の負けに乗じて名をなした左翼知識人や評論家と違ったのである。反軍部、反ナチ、反スターリンと反全体主義で一貫しており、日米同盟の必要性を認めていたから安保反対などと甲高い叫びは発さなかった。戦前も戦中も戦後も、日本の大新聞の動向に左右されない数少ない知見の持主で、反軍部の人でありながら、東京裁判批判をいちはやく行なった。」(p331)
「竹山が戦後初めて渡欧するのは1955(昭和30)年だが、その前後、朝日新聞のヨーロッパ総局長森恭三は、次章でもふれるように、東ドイツ礼讃をしきりと流していた。社会主義勢力への思い入れがあって色眼鏡をかけて報道していたからである。その左翼報道人の錯誤はベルリンの壁崩壊以後は明らかになってしまったが、いまなお存外知られていないのは、日本と自由世界を結ぶべき報道関係者のたよりなさである。・・・」(p343)
ここで、もう一度「時流に反して」(文藝春秋)のあとがきをひらくと、
『ベルリンにて』という文を掲載したことについて、書かれております。
「戦後日本のマスコミは赤一色に塗りつぶされたが、実地の実体を知りたいと大いに願っていた。ようやく昭和30年にベルリンに行くことができ、東西関係をしらべた。『ベルリンにて』はかなり骨を折って作った文章だが、その後ベルリンの壁もできたことだし、もう一般の常識になっていることと思って、それを新潮社の文庫本『ヨーロッパの旅』にも入れなかった。ところが、どうも人々はそれほどこの事実を知っていないと思われるので、この本に再生させた。・・・」
うん。これで竹山道雄への興味が、ますます深まるのでした。
その一冊・竹山道雄著「時流に反して」(昭和43年)は
ご本人が選んだ文で成り立っております。
その「あとがき」は
「戦中から戦後に書いたものから選んで、この一冊にした。未曽有の変動の時期だったから、もともと世事にはうとい私にも、考え感じることがたくさんあった。それで、ここに収録されたものには、ほとんどみな時代の動きが影を投じている。」とはじまっておりました。
そして、各章ごとについて筆者の思いを書き添えておられました。
「白磁の杯」の章についてでは、「昭和29年ごろは集団ヒステリーの頂点だった」とあるのでした。
う~ん。昭和29年頃というのが気になります。
ということで、平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)をひらいてみるのでした。
キーワードは、「竹山は1955(昭和30)年2月、戦後はじめて国外に出・・」(p319)であり、
「戦後は1955(昭和30)年から竹山道雄は毎年のように海外へ長く出かけた。1964(昭和39)年までのわが国は外貨持出制限があり、先方からの招待がなければ出国できない時期が長く続いた。日本の一部でソ連邦の理想化や人民中国の理想化が行なわれたのは、その土地へ行く人が数少なかったからこそ生まれた幻影だったといってよい。それだけに竹山の例外的な体験は当時の日本人としてはまことに貴重であった。・・・著述家として世間に認められようとして時流に媚びることをしなかったからである。そのために時に日本国内の論壇では孤立しているかに見えたが、しかしそうであったからこそ、日本の負けに乗じて名をなした左翼知識人や評論家と違ったのである。反軍部、反ナチ、反スターリンと反全体主義で一貫しており、日米同盟の必要性を認めていたから安保反対などと甲高い叫びは発さなかった。戦前も戦中も戦後も、日本の大新聞の動向に左右されない数少ない知見の持主で、反軍部の人でありながら、東京裁判批判をいちはやく行なった。」(p331)
「竹山が戦後初めて渡欧するのは1955(昭和30)年だが、その前後、朝日新聞のヨーロッパ総局長森恭三は、次章でもふれるように、東ドイツ礼讃をしきりと流していた。社会主義勢力への思い入れがあって色眼鏡をかけて報道していたからである。その左翼報道人の錯誤はベルリンの壁崩壊以後は明らかになってしまったが、いまなお存外知られていないのは、日本と自由世界を結ぶべき報道関係者のたよりなさである。・・・」(p343)
ここで、もう一度「時流に反して」(文藝春秋)のあとがきをひらくと、
『ベルリンにて』という文を掲載したことについて、書かれております。
「戦後日本のマスコミは赤一色に塗りつぶされたが、実地の実体を知りたいと大いに願っていた。ようやく昭和30年にベルリンに行くことができ、東西関係をしらべた。『ベルリンにて』はかなり骨を折って作った文章だが、その後ベルリンの壁もできたことだし、もう一般の常識になっていることと思って、それを新潮社の文庫本『ヨーロッパの旅』にも入れなかった。ところが、どうも人々はそれほどこの事実を知っていないと思われるので、この本に再生させた。・・・」
うん。これで竹山道雄への興味が、ますます深まるのでした。