昨日、フジテレビの山田太一ドラマ「よその歌わたしの唄」を最後まで見る。
一人カラオケの場面からはじまっておりました。
歌といえば、
竹山道雄著「ビルマの竪琴」の第一話は「うたう部隊」。
その第一話の前に、一頁の文があるのです。
それを引用。
こうはじまります。
「兵隊さんたちが大陸や南方から復員してかえってくるのを、見た人は多いと思います。みな疲れて、やせて、元気もなくて、いかにも気の毒な様子です。中には病人になって、蝋(ろう)のような顔色をして、担架にかつがれている人もあります。
こうした兵隊さんたちの中で、大へん元気よくかえってきた一隊がありました。みないつも合唱をしています。・・・」
ちなみに、新潮文庫にはあとに「ビルマの竪琴ができるまで」という文が掲載されております。それも引用。
「戦後まもなく『赤とんぼ』の編集長の藤田さんが私の家に来られ、何か児童向きの読物を書け、といわれました。・・・・あの物語は空想の産物です。モデルはありません。・・・モデルはないけれども、示唆になった話はありました。こんなことをききました。――
一人の若い音楽の先生がいて、その人が率いていた隊では、隊員が心服して、弾がとんでくる中で行進するときには、兵たちが弾のとんでくる側に立って歩いて、隊長の身をかばった。いくら叱ってもやめなかった。そして、その隊が帰ってきたときには、みな元気がよかったので、出迎えた人たちが『君たちは何を食べていたのだ』とたずねた。(あのころは、食物が何よりも大きな問題でした)
鎌倉の女学校で音楽会があったときに、その先生がピアノのわきに坐って、譜をめくる役をしていました。『あれが、その隊長さん――』とおしえられて、私はひそかにふかい敬意を表しました。日ぐらしがしきりに鳴いているときでしたが、私はこの話をもとにして、物語をつくりはじめました。・・・」(p194~195)
竹山道雄氏に「昭和十九年の一高」という文があります。
ちなみに、竹山氏はその一高の先生でした。
そのはじまりは
「昭和19年・・・この年の春から、二年生は日立の工場に働きに行っていた。・・若い人たちは若い人たちらしく、くるしい中にも自分たちの生活をつくっていた。しかし、それはあの当時の時世にはまったく容れられないものであった。ことに、あの軍国化された工場町にあっては、一高生の生活はそれ自体が反抗であり、挑発であった。ある場合には侮辱としてうけとられた。」
以下は、「歌」に触れられた箇所をピックアップ。
「一高生は大勢一緒に歌をうたいながら歩く。こんなことは酔っぱらいか気違いのすることであった。また雨がふるとマントを頭からかぶって歩く、その異様な姿に出あうと、女たちはおそれて道をさけた。・・また、日立の町はあのようなところであるから、私娼窟があった。ここに行けば、おでんを食うことができた。腹がすいている一高生は列をなして、『ああ玉杯』をうたいながら、おでんを食いに白昼私娼窟にくりこんだ。町の人はこれを見て、『天下の一高生が――』とおどろいた。」
それから5頁ほど先には
「ある日の午後、寮生が一人だけ、まだ早い時間に川崎の工場からかえってきた。一高は工場の出勤率がよくなく、これが学校の大きな悩みの種であったから、工場の係りの先生たちにはまたその立場としての困難な任務があった。早退もきびしく取締られていた。この寮生に早退の理由をきくと、答は意外なものだった。『靴がないから、早退しました』この人は跣足(はだし)であるいていた。『おそくなると電車が混んで、足をふまれてたまりません。それで早退しました』この人はそういって寮に入っていったが、行きながら、大きなのんきな声で寮歌をうたっていた。」
そして、こんな箇所
「出征応召が日についだ。見なれた顔がいつのまにか見えなくなった。もうこのころになっては歓送の会もなく、寮の入口の下駄箱のところでしばらく立話をして、『行ってまいります』といって出て行った人もあった。すべての人が、いつかは自分も出てゆく日があるのを覚悟していた。悲歌『都の空』の合唱は、塔の上に、校舎の前庭に絶えることなく、あの歌の声は自分の家にかえっても耳の底にきこえた。
特攻隊に編入された鷲尾君があたらしい軍服を着て、別れを告げに学校にやってきて、その後まもなく散華したときいたのは、これよりもう少し後のことであったろう。白状すると、私はあのとき同君と話しするのがつらかったし、いやだった。彼は何か冷やかなものを感じたのかもしれない、階段の途中でしばらく躊躇していたが、やがて思いきって段を降りてひとりで外へ出て行った。」
ちなみに、新潮文庫「ビルマの竪琴」の後ろには、他の歌とともに、
「都の空に東風吹きて」(一高第14回紀念祭寮歌)の歌詞が、一から十まで掲載されているのでした。
一人カラオケの場面からはじまっておりました。
歌といえば、
竹山道雄著「ビルマの竪琴」の第一話は「うたう部隊」。
その第一話の前に、一頁の文があるのです。
それを引用。
こうはじまります。
「兵隊さんたちが大陸や南方から復員してかえってくるのを、見た人は多いと思います。みな疲れて、やせて、元気もなくて、いかにも気の毒な様子です。中には病人になって、蝋(ろう)のような顔色をして、担架にかつがれている人もあります。
こうした兵隊さんたちの中で、大へん元気よくかえってきた一隊がありました。みないつも合唱をしています。・・・」
ちなみに、新潮文庫にはあとに「ビルマの竪琴ができるまで」という文が掲載されております。それも引用。
「戦後まもなく『赤とんぼ』の編集長の藤田さんが私の家に来られ、何か児童向きの読物を書け、といわれました。・・・・あの物語は空想の産物です。モデルはありません。・・・モデルはないけれども、示唆になった話はありました。こんなことをききました。――
一人の若い音楽の先生がいて、その人が率いていた隊では、隊員が心服して、弾がとんでくる中で行進するときには、兵たちが弾のとんでくる側に立って歩いて、隊長の身をかばった。いくら叱ってもやめなかった。そして、その隊が帰ってきたときには、みな元気がよかったので、出迎えた人たちが『君たちは何を食べていたのだ』とたずねた。(あのころは、食物が何よりも大きな問題でした)
鎌倉の女学校で音楽会があったときに、その先生がピアノのわきに坐って、譜をめくる役をしていました。『あれが、その隊長さん――』とおしえられて、私はひそかにふかい敬意を表しました。日ぐらしがしきりに鳴いているときでしたが、私はこの話をもとにして、物語をつくりはじめました。・・・」(p194~195)
竹山道雄氏に「昭和十九年の一高」という文があります。
ちなみに、竹山氏はその一高の先生でした。
そのはじまりは
「昭和19年・・・この年の春から、二年生は日立の工場に働きに行っていた。・・若い人たちは若い人たちらしく、くるしい中にも自分たちの生活をつくっていた。しかし、それはあの当時の時世にはまったく容れられないものであった。ことに、あの軍国化された工場町にあっては、一高生の生活はそれ自体が反抗であり、挑発であった。ある場合には侮辱としてうけとられた。」
以下は、「歌」に触れられた箇所をピックアップ。
「一高生は大勢一緒に歌をうたいながら歩く。こんなことは酔っぱらいか気違いのすることであった。また雨がふるとマントを頭からかぶって歩く、その異様な姿に出あうと、女たちはおそれて道をさけた。・・また、日立の町はあのようなところであるから、私娼窟があった。ここに行けば、おでんを食うことができた。腹がすいている一高生は列をなして、『ああ玉杯』をうたいながら、おでんを食いに白昼私娼窟にくりこんだ。町の人はこれを見て、『天下の一高生が――』とおどろいた。」
それから5頁ほど先には
「ある日の午後、寮生が一人だけ、まだ早い時間に川崎の工場からかえってきた。一高は工場の出勤率がよくなく、これが学校の大きな悩みの種であったから、工場の係りの先生たちにはまたその立場としての困難な任務があった。早退もきびしく取締られていた。この寮生に早退の理由をきくと、答は意外なものだった。『靴がないから、早退しました』この人は跣足(はだし)であるいていた。『おそくなると電車が混んで、足をふまれてたまりません。それで早退しました』この人はそういって寮に入っていったが、行きながら、大きなのんきな声で寮歌をうたっていた。」
そして、こんな箇所
「出征応召が日についだ。見なれた顔がいつのまにか見えなくなった。もうこのころになっては歓送の会もなく、寮の入口の下駄箱のところでしばらく立話をして、『行ってまいります』といって出て行った人もあった。すべての人が、いつかは自分も出てゆく日があるのを覚悟していた。悲歌『都の空』の合唱は、塔の上に、校舎の前庭に絶えることなく、あの歌の声は自分の家にかえっても耳の底にきこえた。
特攻隊に編入された鷲尾君があたらしい軍服を着て、別れを告げに学校にやってきて、その後まもなく散華したときいたのは、これよりもう少し後のことであったろう。白状すると、私はあのとき同君と話しするのがつらかったし、いやだった。彼は何か冷やかなものを感じたのかもしれない、階段の途中でしばらく躊躇していたが、やがて思いきって段を降りてひとりで外へ出て行った。」
ちなみに、新潮文庫「ビルマの竪琴」の後ろには、他の歌とともに、
「都の空に東風吹きて」(一高第14回紀念祭寮歌)の歌詞が、一から十まで掲載されているのでした。