和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ときには何十年。

2013-07-23 | 短文紹介
中公文庫の清水幾太郎著「私の文章作法」は、
山本夏彦氏が文庫に入れるように薦めたというのを読んだことがあります。
その「私の文章作法」の文庫解説が「狐」さん。

その解説で一読忘れられなくなる箇所は、

「・・ただウォーという呻き声として噴き出るしかない状態は、混沌の中でももっとも原初的で野蛮な混沌、もっとも身体的で苛酷な混沌といえる。・・・・
いまの着想をいま書くことだけが文章を書くことではない。昨日生まれた若い混沌だけが混沌なのではない。ときには何十年も魂の一部を封じ込めていた混沌というものがあり、そこに手を届かせ、表現を組み立てようとする文章がある。・・・」

ところで、竹山道雄。
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)に、
そんな混沌と表現について指摘された箇所がありました。

「竹山は8月15日の玉音放送は立川で聞いた。そこでの勤労作業はじゃが芋畑の雑草取りというつまらない仕事だった。次の文章は竹山没後筐底(きょうてい)に残されていた。これは1976(昭和51)年に活字になってはいなかったのではないかと思うが・・・原稿用紙に『31年前の今日』と書いて消して『終戦の翌日のこと』に改められた短い文章である。『31年前の今日』という題を考えたのは、『10年後に――あれは何だったのだろう』と題して(後に『昭和の精神史』として知られる)歴史的考察を1955(昭和30)年8月から『心』に連載したことが念頭にあったからだろう。竹山の問題意識はあの戦争について、あれは何だったのだろう、という思念と回顧が晩年まで続いたのである。」(p260)

これは第11章「『昭和の精神史』――あの戦争とは」の
はじまりの方で、平川氏が指摘している箇所です。

ちなみに、
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」の人名索引には
清水幾太郎の名が二箇所あるのでした。
そこを引用。

「あのころの東大には軍事アレルギーがあった。大江健三郎が女子学生に向って『自衛官のところへ嫁に行くな』と説いて人気を博した頃である。滑稽だったのは・・・1960年、清水幾太郎以下の左翼知識人は『今こそ国会へ』と学生を煽動したが、1968年にはほかならぬその学生たちによって今度は大学が包囲され占拠されてしまったのである。・・・同類の学生に研究室を荒らされるに及んで丸山真男はにわかに活動家学生をファシスト呼ばわりした。・・他方、東大紛争で男をあげたのは学生たちに軟禁されて173時間、一歩も譲らなかった林健太郎文学部長である。その翌々年林は予想を裏切って東大総長に選出された。大新聞は小さな扱いしかしなかったが、戦後日本の思想史上の転換点はあの林総長の選出にあったと思う。それ以後思想的に左翼は沈滞した。・・・」(p449)

ふ~ん。清水幾太郎は、もとは左翼知識人あがりなのだ。

「竹山は、清水幾太郎などのような戦後論壇で主流となった左翼知識人を信用しなかった。」(p318)


「ときには何十年」たって、
あまたある、
大江健三郎・丸山真男・清水幾太郎の論よりも、
竹山道雄の論を読みたい。
というのが、今年の夏。

コメント
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