家にある、未読新書を見てたら、
小泉信三著「読書論」(岩波新書)があった。
帯に「アンコール復刊」とあるので、
その時買ってそのままだったのでしょう(笑)。
パラパラとめくると、
書評についてでは、こんな箇所がある
「書評雑誌として私のなが年購読したのは、
ロンドン・タイムスの週刊文芸附録(リテラリー・
サップレメント)であった。
無論戦前のことで現在の状況は知らないが、
開戦までは殆ど続けて読み、
それを読んで注文した洋書では、
一度も選択を悔いたことがない。・・
このリテラリー・サップレメントが、
よく書評誌の責任と権威とを思い、その評論を
商業主義の流弊から護るために充分に心を配り、
例えば、掲載に値しない書籍の広告は受け付けない
と公言したごときはさすがというべきである。
・・・・」(p126~127)
気になったのは、
久保田万太郎を書いている箇所でした。
そこを引用していきます。
「・・・久保田万太郎である。・・
今日になってみると、彼れは驚くべき
夙成(しゅくせい)の作家で、処女作
『朝顔』『遊戯』の頃から、すでに
定まる特有の境地を持っていた。
彼はみずから永井荷風、小山内薫を
模倣したと称し、それも事実であろうけれども、
出来上った作品はどこまでも久保田独特のもの
であって、模擬踏襲の跡は見られない。
彼れの作品にはしばしば遠慮深い、
人の気をかねる人物が描かれているが、
作者自身はそうでなく、制作上どこまでも押し強く、
我が好む題材を我が好む言葉で書いている。
久保田と私とは同じ東京に生れ、
同じ学校を出ながら、生活環境も生活態度も
全然ちがい、浅草と三田とで、お互いの言葉も
通じないかと思われるほど離れた生活をして
来たのであるが、しかも四十年来、久保田の作品を
見れば私は常に必ず読む。彼の評論や感想文を見ると、
いつまでも中々本題に入らないので私はじれったくなって、
言うことがあったらさっさと言ったらいいじゃないか、
と言いたくなる衝動を抑えかねるのであるが、
小説と殊に戯曲は、何時になってもいいものだといつも思う。
久保田の文学は東京または江戸の産物だといわれるけれども、
その東京は極く限られた浅草の一地区で、その作中の人物は、
ときとして同じ東京に生れたものにも解し難い方言で語り
合っている。今は大部分過去のものになったが、
年季を入れた職人親方、それに仕事を与える『お店(たな)』
と称する商人の階級、この人々やこれと交わる人々の営む
回顧的保守的の市井の生活、浅草観音附近一帯の
土地の特殊の空気、四季折々のその変化。
それらのものを描くことにおいて久保田の前にも後にも
久保田はないというべきであろう。
ただ作中人物の、陰影の細かい言葉の端々にただよう
寂寥と余哀の情に至っては、それはひとり浅草の市井の
人を動かすものでなく、時と処とを超えて
人の心そのものを動かすものである。
そうしてその特色は彼れの出世作以来今日まで変らない。
極めて地方的な久保田の作品が意外に多くの普遍性を持ち、
存外広い範囲に読者を持つというのはそのためであろう。」
(p145~147)
う~ん。
小説を読めない私ですが、
これを機に、久保田万太郎の
小説・戯曲が読めますように。
小泉信三著「読書論」(岩波新書)があった。
帯に「アンコール復刊」とあるので、
その時買ってそのままだったのでしょう(笑)。
パラパラとめくると、
書評についてでは、こんな箇所がある
「書評雑誌として私のなが年購読したのは、
ロンドン・タイムスの週刊文芸附録(リテラリー・
サップレメント)であった。
無論戦前のことで現在の状況は知らないが、
開戦までは殆ど続けて読み、
それを読んで注文した洋書では、
一度も選択を悔いたことがない。・・
このリテラリー・サップレメントが、
よく書評誌の責任と権威とを思い、その評論を
商業主義の流弊から護るために充分に心を配り、
例えば、掲載に値しない書籍の広告は受け付けない
と公言したごときはさすがというべきである。
・・・・」(p126~127)
気になったのは、
久保田万太郎を書いている箇所でした。
そこを引用していきます。
「・・・久保田万太郎である。・・
今日になってみると、彼れは驚くべき
夙成(しゅくせい)の作家で、処女作
『朝顔』『遊戯』の頃から、すでに
定まる特有の境地を持っていた。
彼はみずから永井荷風、小山内薫を
模倣したと称し、それも事実であろうけれども、
出来上った作品はどこまでも久保田独特のもの
であって、模擬踏襲の跡は見られない。
彼れの作品にはしばしば遠慮深い、
人の気をかねる人物が描かれているが、
作者自身はそうでなく、制作上どこまでも押し強く、
我が好む題材を我が好む言葉で書いている。
久保田と私とは同じ東京に生れ、
同じ学校を出ながら、生活環境も生活態度も
全然ちがい、浅草と三田とで、お互いの言葉も
通じないかと思われるほど離れた生活をして
来たのであるが、しかも四十年来、久保田の作品を
見れば私は常に必ず読む。彼の評論や感想文を見ると、
いつまでも中々本題に入らないので私はじれったくなって、
言うことがあったらさっさと言ったらいいじゃないか、
と言いたくなる衝動を抑えかねるのであるが、
小説と殊に戯曲は、何時になってもいいものだといつも思う。
久保田の文学は東京または江戸の産物だといわれるけれども、
その東京は極く限られた浅草の一地区で、その作中の人物は、
ときとして同じ東京に生れたものにも解し難い方言で語り
合っている。今は大部分過去のものになったが、
年季を入れた職人親方、それに仕事を与える『お店(たな)』
と称する商人の階級、この人々やこれと交わる人々の営む
回顧的保守的の市井の生活、浅草観音附近一帯の
土地の特殊の空気、四季折々のその変化。
それらのものを描くことにおいて久保田の前にも後にも
久保田はないというべきであろう。
ただ作中人物の、陰影の細かい言葉の端々にただよう
寂寥と余哀の情に至っては、それはひとり浅草の市井の
人を動かすものでなく、時と処とを超えて
人の心そのものを動かすものである。
そうしてその特色は彼れの出世作以来今日まで変らない。
極めて地方的な久保田の作品が意外に多くの普遍性を持ち、
存外広い範囲に読者を持つというのはそのためであろう。」
(p145~147)
う~ん。
小説を読めない私ですが、
これを機に、久保田万太郎の
小説・戯曲が読めますように。