竹山道雄は明治36年生まれ。
昭和20年は42歳でした。
田村隆一は大正12年生まれ。
昭和20年は22歳でした。
竹山道雄と田村隆一は
ほぼ親と子ほどの年齢差。
昨日のブログで
平川祐弘氏が引用する竹山道雄の文に、
「ビルマの竪琴」を書いた頃への言及がありました。
そこをもう一度引用。
「書きはじめたのが終戦翌年の夏で、
本になったのが昭和23年だった。
あのころは何もかも混沌としていた。
ラジオは行方不明者の消息をたずねつづけていた。
・・・・
帰還兵や引き揚げ者の姿は毎日見た。
そして、われわれはいったいどうなるのか、
国はほろびるのか再建ができるのか、
と胸をいためた。あの当時の気持ちは、
経験しなかった人にはわからないだろう。
その中で私にとって気になったのは、
遠い異国に屍(しかばね)をさらしている
人々のことだった。バイロンの句をかりれば、
『知られず、柩(ひつぎ)におさめられず、
葬(とむら)いの鐘も鳴らされず』
にいることだった。ことに前に自分の学生だった
若い人々がどこかで野曝(のざら)しになっている
ことを思うと、堪えがたかった。
・・・・・
何とかして葬いをしなくてはーー
これがあの物語りの動機である。」
この箇所を、ブログに引用していた私に、
思い浮かんできたのが、田村隆一の詩「立棺」。
ちなみに、
田村隆一には「路上の鳩」というエッセイがあり、
ご自身で、自分の詩「立棺」をとりあげておられます。
そこから、すこし引用してゆきます。
「立棺」についてです。
「この詩は、『荒地詩集』1952年のために
わたしが書いたものです。・・・
この詩が書かれるほぼ一年前、ある雑誌に
鮎川信夫氏が『裏町にて』というリリカルな
作品を発表したことがありました。その詩の
・・・なかにある『立棺』という言葉が
わたくしの想像力をつよく打ったという訳です。
・・・さて、わたくしが一篇の詩『立棺』を
書きたいというはげしい欲望を感じたのは、
実は中桐雅夫氏の詩を見たときからなのです。
・・・中桐氏の『立棺』という詩は、
たしか二十行たらずのように記憶しております。
或る冬の夜でした。『こんな詩を書いてみたよ』
といって、氏から『立棺』という詩を見せられた
・・・中桐氏の二十行たらずの詩の第一行は、
『わたしの屍体を地に寝かすな』
であります。この一行を見た瞬間に、わたくしの
九十行の詩ができてしまったのです。・・・」
では、田村隆一の詩「立棺」を
ちょっと引用してみることに(笑)。
【 Ⅱ
わたしの屍体を地に寝かすな
おまえたちの死は
地に休むことができない
わたしの屍体は
立棺のなかにおさめて
直立させよ
地上にはわれわれの墓がない
地上にはわれわれの屍体をいれる墓がない
わたしは地上の死を知っている
わたしは地上の死の意味を知っている
どの国へ行ってみても
おまえたちの死が墓にいれられたためしがない 】
ところで、
「ラジオは行方不明者の消息をたずねつづけていた」
という箇所が気になります。いったい、
昭和の何年ごろまで続いたものなのでしょうか。
昭和20年は42歳でした。
田村隆一は大正12年生まれ。
昭和20年は22歳でした。
竹山道雄と田村隆一は
ほぼ親と子ほどの年齢差。
昨日のブログで
平川祐弘氏が引用する竹山道雄の文に、
「ビルマの竪琴」を書いた頃への言及がありました。
そこをもう一度引用。
「書きはじめたのが終戦翌年の夏で、
本になったのが昭和23年だった。
あのころは何もかも混沌としていた。
ラジオは行方不明者の消息をたずねつづけていた。
・・・・
帰還兵や引き揚げ者の姿は毎日見た。
そして、われわれはいったいどうなるのか、
国はほろびるのか再建ができるのか、
と胸をいためた。あの当時の気持ちは、
経験しなかった人にはわからないだろう。
その中で私にとって気になったのは、
遠い異国に屍(しかばね)をさらしている
人々のことだった。バイロンの句をかりれば、
『知られず、柩(ひつぎ)におさめられず、
葬(とむら)いの鐘も鳴らされず』
にいることだった。ことに前に自分の学生だった
若い人々がどこかで野曝(のざら)しになっている
ことを思うと、堪えがたかった。
・・・・・
何とかして葬いをしなくてはーー
これがあの物語りの動機である。」
この箇所を、ブログに引用していた私に、
思い浮かんできたのが、田村隆一の詩「立棺」。
ちなみに、
田村隆一には「路上の鳩」というエッセイがあり、
ご自身で、自分の詩「立棺」をとりあげておられます。
そこから、すこし引用してゆきます。
「立棺」についてです。
「この詩は、『荒地詩集』1952年のために
わたしが書いたものです。・・・
この詩が書かれるほぼ一年前、ある雑誌に
鮎川信夫氏が『裏町にて』というリリカルな
作品を発表したことがありました。その詩の
・・・なかにある『立棺』という言葉が
わたくしの想像力をつよく打ったという訳です。
・・・さて、わたくしが一篇の詩『立棺』を
書きたいというはげしい欲望を感じたのは、
実は中桐雅夫氏の詩を見たときからなのです。
・・・中桐氏の『立棺』という詩は、
たしか二十行たらずのように記憶しております。
或る冬の夜でした。『こんな詩を書いてみたよ』
といって、氏から『立棺』という詩を見せられた
・・・中桐氏の二十行たらずの詩の第一行は、
『わたしの屍体を地に寝かすな』
であります。この一行を見た瞬間に、わたくしの
九十行の詩ができてしまったのです。・・・」
では、田村隆一の詩「立棺」を
ちょっと引用してみることに(笑)。
【 Ⅱ
わたしの屍体を地に寝かすな
おまえたちの死は
地に休むことができない
わたしの屍体は
立棺のなかにおさめて
直立させよ
地上にはわれわれの墓がない
地上にはわれわれの屍体をいれる墓がない
わたしは地上の死を知っている
わたしは地上の死の意味を知っている
どの国へ行ってみても
おまえたちの死が墓にいれられたためしがない 】
ところで、
「ラジオは行方不明者の消息をたずねつづけていた」
という箇所が気になります。いったい、
昭和の何年ごろまで続いたものなのでしょうか。