和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

終戦翌年の夏。

2015-07-11 | 古典
伊藤正雄著「福澤諭吉論考」(吉川弘文館)に
「小泉信三博士の福沢論(1966)」がありました。

そこには、小泉信三著「福沢諭吉」(岩波新書)が
出た際に、お礼状をお送りし、それが届くかと思われる
数日後に博士の訃報が報ぜられたということから
書き出されておりました。

その次に、こうあります。
「広汎な博士の全著作の中で、福沢諭吉が占める率は
さまで大きいものではないであろう。しかしながら、
近年博士ぐらゐ頻繁に且つ熱心に福沢諭吉を語った
学者はおそらく類がなかったと思ふ。けだし天下に
誇るべき慶應義塾の伝統、福沢精神の発揚を以て
終生の使命とされてゐたのであらう。福沢先生自身、
『大切な問題は、世間に一度や二度訴へただけでは
駄目だ。何度でも繰返せ』と言はれたといふ。
事実『時事新報』の論説などを見ても、重大な主張は
再三再四反復された跡が著しい。
博士の福沢論もまた同様の観があった。」(p551)

ここに、
福沢諭吉の言葉として、『大切な問題は、
世間に一度や二度訴へただけでは駄目だ。
何度でも繰返せ』と引用されております。



『何度でも繰返せ』といえば、
雑誌「正論」8月号に、平川祐弘氏が
「『ビルマの竪琴』再び ・・」と題して
22頁の文を載せておりました。

そこから、最後の方を引用させて
いただきます。

「どういう動機であの物語りを書いたのだ、
とひところしきりに問われたので、私は
『〈ビルマの竪琴〉ができるまで』という文章を
書いたことがある。ひさしぶりで読みかえして、
あの息もできないほどにこんだ電車で勤めに通い、
腹もすいて、夜は停電で蝋燭の下で書きつづけた
ころを思いだし、感慨がふかかった。
書きはじめたのが終戦翌年の夏で、
本になったのが昭和23年だった。
あのころは何もかも混沌としていた。
ラジオは行方不明者の消息をたずねつづけていた。
・・帰還兵や引き揚げ者の姿は毎日見た。そして、
われわれはいったいどうなるのか、
国はほろびるのか再建できるのか、
と胸をいためた。あの当時の気持ちは、
経験しなかった人にはわからないだろう。

その中で私にとって気になったのは、
遠い異国に屍をさらしている人々のことだった。
バイロンの句をかりれば、
『知られず、柩におさめられず、
葬(とむら)いの鐘も鳴らされず』
にいることだった。
ことに前に自分の学生だった若い人々が
どこかで野曝(のざら)しになっている
ことを思うと、堪えがたかった。
戦時中から方々の葬儀に行くと、
柩は空(から)で、その上に剣がおいてあったり、
見なれた姿の写真がかざってあったりした。
ある葬儀で、一人の海軍士官が声をひそめて、
『きょうの葬式には遺髪も遺骨もないのです』
といった。ちょうどそれが私が考えていたことだった。
何とかして葬いをしなくてはーー
これがあの物語りの動機である。
・・・・・・・
当時は、世間に戦死者の冥福を祈るような
気持ちはなかった。それどころか、
『戦った者はみな一律に悪人である』
といったような調子で、
日本軍を罵倒するのが流行で正義派だった。
義務を守って命を落とした人の鎮魂をねがうことと、
戦争の原因や責任の解明とはまったく別なことであるのに、
おどろくべく軽薄な風潮がつづいた。・・・」
(p226~227)


これは、竹山道雄の文
「戦野に捨てられた遺骨へのとむらいーー
『ビルマの竪琴』」(読売新聞・昭和39年8月26日夕刊)
からの引用でした。
平川祐弘氏は、ご自身の文の最後を
この文を引用することで結びとしておりました。
では、引用された竹山道雄氏の言葉の
最後の箇所を、ここに繰返すことに。


「住んでいた家の近くに鎌倉の寿福寺があり、
私はよくここに行った。そこの岩窟の一つに
源実朝の墓があり、そのむかいに白木の墓が
立っていて、それに『昭和二十年四月二十四日
南洋群島セントアンドレウ諸島ソンソル島二於テ
戦死行年二十三歳』と書いてあった。
その木はもう朽ちてなくなったが、
私はいまだに心の隅で自分が喪に服している
ような気がときどきする。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする