岩波文庫の「歎異抄」は、金子大栄校注。
本をひらくと、解題からはじまっております。
そこから、はじまりを引用。
「この書は親鸞の語録を本(もと)とし、
それによって親鸞の死後に現われた異説を歎きつつ、
親鸞の正意を伝えようとしたものである。
作者は・・・唯円(ゆいえん)であるということが
ほぼ定説となっている。
・・・・・
作者はまた晩年に京都に帰った親鸞を慕い
同友と共に、はるばると東国から上洛して、
法を聞いたものに違いない。・・・・・
されば親鸞に『おのおの十余ケ国のさかひをこえて、
身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ
御こころざし』(第二章)と迎えられた弟子たちの中に、
作者もいたのであろう。
この書に出づる親鸞の言葉は、
その上洛の際に聞いたことで、
ことに深い感銘をうけたものを
記録したものであると思われる。
したがって作者唯円は親鸞の東国にあった頃
の門弟であるとしても、必ずしも長老格の人ではなく、
晩年に京都にあった親鸞に親しみの多かったものであろう。」
(p5~6)
さてっと、増谷文雄氏は、その「歎異抄」に
関して、面白い視点を提供してくれております。
それを紹介。
増谷氏は親鸞を理屈っぽい人であったに
ちがいないと見当をつけて、ある機会に
「真宗のさる高名の学人に」聞いてみたことを
書き残してくれております。
「---そんなわたしの問いにたいして、
その学人は、じっと天井を見詰めながら、
なにか口のなかで呟きはじめた。
じっと耳をすませて聞いてみると、
『弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて・・・』
と、『歎異抄』の第一段を暗誦しているのである。
その暗誦がすすんで、まもなく、
『弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばず、
ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは』
という条(くだり)までくると、
今度は、わたしの方をむいて、もう一度、
『そのゆへは』と力をこめて繰り返された。
つづいて、第二段の暗誦である。
今度はすこし長いのであるが、
『たとひ法然聖人にすかされまひらせて、
念仏して地獄におちたりとも、さらに
後悔すべからずさふらふ。そのゆへは』
と力づよい復誦であった。
わたしは、自分の不勉強をはじた。
そして、家に帰るとすぐ『歎異抄』を
とりだして、もう一度読んでみた。
すると、第三段にも『そのゆへは』がある。
第五段にも、第六段にも『そのゆへは』がある。
さらに、第七段では『そのいはれいかんとなれば』
であり、第九段では『よくよく案じみれば』である。
よく知られているように、
『歎異抄』はその第十段の前半までが、
親鸞のことばを直接法で記したものである。
かつ、唯円の筆はよく親鸞の語調をそのままに
保っていると考えられる。しかるに、
その十段のほとんどすべてが、それぞれの
理由の追求を語っているということは、
まったく驚き入ったことであった。」
(p22~23)
これは、筑摩書房「日本の思想」の
第3巻親鸞集にありました。
このあとには
「しかるに、親鸞のことばのなかには、
また、しばしば、人々の論理的追求を
否定するかに思われることばが見出される。」
という別の流れになってゆくのですが、
わたしは『さる高名の学人の話し』だけで、
もう満腹です。
さてっと、晩年の親鸞と京都ということで
別の本を引用。
「親鸞の教えは、大衆の幅広い共感をよんで
東国一円に広まった。旧体制は念仏を再三禁じたが、
親鸞は禁止されると、次の土地へ移っては布教をつづけた。
彼が家族をつれて京都へ帰ったのは、
もう六十を過ぎてからだ。二十年ぶりのふるさとである。
親鸞が帰京しなかったのは、京都で念仏が禁じられて
いたこと(貞応の禁止)。すでに法然の墓まであばかれ、
高弟の流されいていた(嘉禄の法難)こと。
そして、法然が生前
『一辺地のいなかほど、念仏布教の必要性がある』
と説いてくれたためだ。
京へ帰った親鸞は、自分の寺を建てなかった。
師の遺志をついで吉水の山房を布教の本拠にした。
しかし、そこでも彼は衆生救済のための祈とうや読経、
父母のための念仏さえ唱えなかった。
大寺院やガランでは衆生を救えない。
信仰は決して他人が押しつけるものではない。
自らが弥陀如来の本願を信じ、
念仏をとなえてこそ救われるものだ、
という確信からであろう。
彼の京都での晩年は、決して幸福ではなかった。
経済生活も東国の門弟から細々とつづく『志納』で
ささえられ、ついには同行した家族も四散してしまう。
親鸞が八十三歳のとき、
また旧体制の念仏弾圧(鎌倉訴訟事件)が行なわれた。
親鸞の長男である善鸞は、
この弾圧で親鸞教が滅ぶのをうれい、
真言修験道を念仏にとり入れて、
教義の維持発展をはかろうとした。
これは父から見れば、明らかに
旧体制への妥協であり、信仰の道にそむくものだった。
親鸞は長男を破門した。
1262年(弘長2年)、親鸞は九十歳で死んだが、
彼のような傑僧にも、やはり親子の
断絶はさけられなかったようだ。・・・」
(p9~10・「乱世の実力者たち」京都新聞社)