林屋辰三郎氏の対談を読んでいたら、
私の未読本に、何かあるかもしれない。
そう思って文庫本を見ると、ありました(笑)。
「日本史のしくみ 変革と情報の史観」(中公文庫)。
林屋辰三郎・梅棹忠夫・山崎正和編。
このあとがきは、梅棹忠夫。そこに
「昭和44年の暮から、林屋さんのおさそいをうけて、
日本史についての討論会をやることになった・・・」
とあり、そこでこう指摘されておられます。
「林屋教授は、日本史を古代から近代まで、
幅広く見とおせる、めずらしい型の史家である。
こんどの討論では、全部をつらぬいて、
氏の見識と指導力に全面的に依存することに
なったのは当然のなりゆきといわねばならない。」
こうあるのでした。
見るともなしに、パラリと開くと
最後の方に『復興文化』と題して
林屋辰三郎氏の文が3頁ほどの文を
載せておりました。
そのはじまりは
「歴史の時代は、
しばしば災害によって時期を画される。
その実は変革期の内乱であっても、
庶民の現実的な感覚としては、
戦乱にともなう災害であった。」
うん。3頁を、断片にしてしまうと、
意味が通じなくなるかもしれない。
でも、ここでは断片にたよることに(笑)。
「そこで、災害史観を近代に適用すると、
どういうことになるか。まずその一つに、
大正12年(1923)9月1日、関東を襲った
大震災をあげねばならない。この災害は、
直接的には関東であったが、日本全体に
課せられたといってもよいであろう。
その直後、廃墟のなかで江戸の情緒はもとより、
明治もまた遠くなったことを、人々は実感をもって
味わったのだ。・・・・・
もう一つの画期はいうまでもなく、
第二次大戦=太平洋戦争の戦災だ。
広島・長崎はいうに及ばず、東京大空襲をはじめとして、
全国の主要都市はほとんど焦土となった。
それから25年、われわれは現在、
復興ということを感じさせない、全く
新しい現代文化のなかにある。
しかし少し考えてみれば、やはり
現代日本は復興文化の国ということになろう。
日本は名にし負う災害国である。
その上の戦災国である。
災害には必ず復興をともなう。
日本人にとって復興は、
生きるための条件であったともいえる。
毎年の恒例のように襲ってくる台風、
忘れたころにやってくる地震、
そうした被害への対応は、
全くねばり強い繰り返しの復旧作業である。
日本人の生きがいは復興にあるのかもしれない。
そして災害という一歩後退と、復興という二歩前進
のなかで、日本は進歩してきた。いわば
文化創造の旗印として復興があったといえるだろう。
しかしそのような文化の基本的性格は、
変革的というよりも保守的な漸進性に貫かれており、
古く滅びたものを典拠とする古典性によってささえられている。
京都などはその典型ともいってよい都市である。
たとえば王朝文化というものも、
数をかさねた内乱で完全に滅んだはずだが、
桃山の復興文化として現在の京都に残され、
一応のムードだけは味わえるというたぐいである。
日本人は口でいうほどに史跡や文化財を
尊重しているとは思われないが、現実の生活環境
のなかに歴史がつきまとっているのだといえよう。」
(p201~202)
うん。昨年の台風15号・19号のことを
思い浮かべたりしてしまいます。
そうそう。中公文庫には『日本人の知恵』もありました。
林屋辰三郎・梅棹忠夫・多田道太郎・加藤秀俊。
この4人連名の「あとがき」(昭和37年)には
「こういう共同討議の企画を、だれが最初に思いついたか、
わたしたちは知らない。それは○○学芸部のだれかであって、
メンバーも、その指名によってきまったのであった。
わたしたちは、みんな京都に住んでいるけれど、
必ずしもまえからの知りあいではなく・・・・
ところが、討論をはじめてみると、どういうわけか、
みんなひじょうに気があった。
みんな忙しいものばかりだが、この会にかぎって、
出席率はたいへんよかった。98パーセントくらいに
なっただろう。会場は・・京都岡崎の『たき本』の一室に
固定してしまった。会合は5時頃からはじまる。
途中で食事をはさむが、議論はたいてい11時すぎまでつづく。」
(p242~243)
はい。梅棹忠夫を昨年は読もうと思った。それが
はじまったばかりの中途半端な読書なのに、
興味は、林屋辰三郎の本へふれてゆく(笑)。