身近に本を置き、時にパラパラとめくる。
というのは、何とも贅沢ですね(笑)。
図書館に行くという手もあるのですが、
なんせ田舎なもので、時間も手間もかかる。
ネットで簡単に安価な古本が手にはいると、
贅沢も安上がりにできる。これが嬉しい(笑)。
さてっと、林屋辰三郎対談集
「聚楽の夜咄」(淡交社・1994年)は、
本100円+送料350円=450円という
ネットでの贅沢。うん。これを手にして良かった。
ここから、いろいろな本へ結びつく予感(笑)。
それはそうと、この対談集に山崎正和氏との
対談が掲載されておりました。紹介文を
見ると、山崎正和氏は京都府生れなんですね。
さて、この山崎氏の対談の最後を引用したくなります。
林屋】 これは面白い人物ですね。
(足利)義政なんていう人は、歴史の上で
だれも弁護する学者はおりませんなあ。
応仁の乱という京都の三分の一が灰になった
大乱に背をむけて、お茶だ能だと遊び呆けて
いたというので、徹底的に悪者にされてしまった。
しかし、そういう見方は一面的だと思うね。
山崎】 幸か不幸か
日野富子という強い奥さんを持ったので、
政治の現実面は奥さんにぜんぶまかせて、
彼は幕府の公家化を意識的にやったような
気がしますね。武士たちは公家文化に弱いから、
公家文化の中心に自分をおくことで、
情報交換の場を提供したり、武士の争いにたちまじって、
調整機能を果たそうとしたんじゃないか。・・・・・
林屋】 とにかく、あの時代はもう政治的には
どうにもならんようになった。守護が大きくなって、
それが互いに抗争している。もちろん、それをおさえるべき
義務は義政にあるにちがいないけれど、
もうなるようにしかならんというところまで
追い込まれているわけですからね。
政治的には無能力者かもしらんが、
一人の人間としてみた場合、立派だと思う。
東山の山荘に同仁斎という茶室を設け、
や猿楽者たちと対等なつき合いをする。
文字通り一視同仁です。
これは普通の貴族や武士にできることではありませんよ。
後小松さんの時宗への関心と共通するとことがあります。
山崎】
現実に彼と同じ状況におかれた人物を考えますとね、
最後の足利将軍、義昭でしょう。義昭はちょこまか動いて、
あちらへ行っては唆(そそのか)し、
こちらへ行っては謀反をすすめる、
権謀術数のかぎりをつくしますね。
なにもしない義政とまさに対照的です。
まあ、義昭・・・・動くことで幕府をつぶしてしまった。
足利幕府があれだけ続いたのは、
義政が幕府を一種の『朝廷』にした
からではないでしょうか。それに義政のまわりに
集まった文化人は第一級の人物ばかりですよ。
林屋】 現在のわれわれの生活の基本になることは、
ほとんど義政の時代にできたんですね。床の間や違い棚、
それにふすまに絵を描くというような
美的な感覚の中で生活するというのは、
みんな義政がはじめたことです。
義政くらい日本人の生活を豊かにした人はいません。
日本人の生活文化史でいちばん高く評価せねばならない。
山崎】 その美的生活の規範が、
後に越前の朝倉から、山口の大内氏にいたるまで、
全国の守護大名の間に広がって行った。
地方に点在する小京都の中身は
だいたい東山文化ですね。
林屋】 そうです。
山崎】
国家というのは、政治と文化の二重の層からできています。
義政が政治的にいくら奔走しても、応仁の乱は長びくばかり
だったでしょう。そこで政治という層で活躍することを
放棄して、文化の層で国家を統一しようとした。
義政の美的生活に憧れた大名たちは、
それを通じて政治的にも義政に呪縛されたといえるわけです。
なんというか、将軍の生き方に新しい構想を示した人
だといえばいいんでしょうか。
・・・・・・・・・
林屋】 当時の人には、おそらく誰も
あの心はわからなかったね。
五百年後のいま、はじめて義政の心が
理解されたということでしょう(笑)。
はい。林屋辰三郎・山崎正和対談の
最後を引用しました(p104~106)。