和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

京都で親鸞と。

2020-02-17 | 京都
司馬遼太郎・林屋辰三郎『歴史の夜咄』(小学館・1981年)。
この本は、のちに小学館ライブラリーでも出ておりました。

単行本は、ゆったりと読めます。文庫サイズの、
ライブラリーは、そこに写真をふやしています。

はい。単行本の古本は、
赤ペンでの線引きが、ところどころにあって、
熱心に読まれた痕跡が残っておりました(笑)。

各雑誌に掲載された対談をまとめた一冊。
そこに、2つの対談を更に加えて本書にしたと、
最後にあります。その本書のための特別対談
に『フロンティアとしての東国』がありました。
今日紹介するのは、この対談からです。

うん。どこから引用したらよいのか。
たとえば、ここから

司馬】 当時、西日本の非常に人口の多い社会では、
善悪さだかならざる状態で暮らしていました。

そのなかにあって関東の登場というのは、何にもまして
倫理的華やぎであったろうと思います。・・・・・

いままでは武士という言葉でかたづけるから、
本質がどこかへ行ってしまうので、
私は前から言っているんです。
あれはたんに農場主なんだと。それも、
できれば開墾農場主とか新興の農場主という
言葉にすればいい。 
(p163・単行本の頁数)


司馬】 ・・・・京都のお公家さんが形式的に
坂東に土地を持っているんだというのは、リアリズムじゃない。
自分が開いた土地は自分のものだ、というリアリズムの確立は、
鎌倉の芸術や宗教に、非常に大きな影響を及ぼしていますね。
強烈なリアリズムだったと思います。・・・・(p165)

はい。うまく紹介できないので、真ん中を飛ばします(笑)
つぎは、歎異抄を語る箇所を引用。

司馬】 『歎異抄』の成立が東国ですね。
『歎異抄』という優れた文章日本語をあの時代に持って、
いまでも持っているというのは、われわれの一つの幸福ですね。
非常に形而上(けいじじょう)的なことを、あの時代の話し言葉で
語れたということは坂東人の偉業だったと思いますね。
 ・・・・・
『歎異抄』というのは、いかにもまた東国のフロンティアの
においがありますね。親鸞が東国へ流されます・・・・・
京都へ帰りましたら、また坂東に・・雑想が芽生えてくるわけです。
・・・疑問になってくる。

それで東国から代表者たちが押しかけてきて、
京都で親鸞と一問一答するわけでしょう。
これは当時の農民の民度からいえば非常に高級なことです。
それを親鸞がまともに受けて答えているからいいんですね。
 (p175)


さて、このあとに司馬さんが語る『京都』がありました。
引用をつづけます。


司馬】 ・・・それをまとめたのが『歎異抄』で、唯円坊という
のが質問の筆頭人で、後に文章にした人だと思うのですが、

これが京都の人なら、
同時代の京都の人が疑問を持っても、

『ああ、わかりました、わかりました』で、
帰っていくと思うのですよ。あるいは
『わからんけれど、まあよろしい』と、
いいかげんにすると思うのです。
いいかげんにする文化が西にはあるんです。

あまり本質をほじくり出すのはえげつないという、
それは差しさわりがあるなどと。
 
林屋】 そうですね。

司馬】 これは人口の多い所には必ずある現象ですが、
坂東は人口の少ない所ですから、人と人とがほんとうに
向き合って接触するときには、対決の形をとる。・・・・・・・

それは武家の親類どうしで土地争いをする場合には
訴訟ということになりますが、その訴訟は
平安末期から鎌倉幕府成立前後の風土です。
だから自分の主張を言葉で表現する。
そしてあくまでも通すというのが、坂東の精神だったわけです。
フロンティアの精神ということでかさねあわせると、
そういうことになる。

そういう土のにおいのする中から日蓮が出たり唯円坊が出て、
たとえば『歎異抄』という文章日本語の名作を残したりしたわけで、

かんじんの関西の本願寺さんは、
『歎異抄』を明治まで隠していたんですね。
『これは見せたらいかん。こんなに明快なものを見せると、
門徒衆はありがたがらんようになる』と。
そのぐらい、『歎異抄』は大げさに言えば人文科学的なものです。
そういう精神は、鎌倉幕府の成立前後は
坂東にみなぎっていたんだろうと思います。
(~p176)

古本を読んでいたら、いつのまにか、
京都と関東の関連へとひろがります。

う~ん。司馬さんと歎異抄といえば、
私に思い浮ぶ短文がありました。

「・・・やがて、学業途中で、兵営に入らざるを
えませんでした。にわかに死についての覚悟を
つくらねばならないため、岩波文庫のなかの
『歎異抄』(親鸞・述)を買ってきて、音読しました。
 ・・・・・・・・
『歎異抄』の行間のひびきに、
信とは何かということを、黙示されたような
思いがしました。むろん、信には至りませんでしたが、
いざとなって狼狽することがないような自分を
つくろうとする作業に、多少の役に立ったような
気がしています。・・・」

これは、司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」
にある、「学生時代の私の読書」(単行本4ページほど)
にあります。その同じ本には、
「日本仏教小論 伝来から親鸞まで」があり、
そこにも引用しておきたい箇所がありました。
最後にそこからの引用。

「日本仏教を語るについての私の資格は、
むろん僧侶ではなく、信者であるということだけです。
不熱心な信者で、死に臨んでは、伝統的な仏教儀式を
拒否しようとおもってる信者です。・・・・・

ただ私の家系は、いわゆる『播州門徒』でした。
いまの兵庫県です。17世紀以来、数百年、
熱心な浄土真宗(13世紀の親鸞を教祖とする派)
の信者で、蚊も殺すな、ハエも殺すな、
ただし蚊遣(かや)り(smudge)はかまわない、
蚊が自分の意志で自殺しにくるのだから。
ともかくも、播州門徒の末裔であるということも、
私がここに立っている資格の一つかもしれません。」











コメント (2)
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