生島遼一著「春夏秋冬」(冬樹社)函入り。
古本で300円。買ってあって、読まずに
置いてあったのを、だしてくる。
生島遼一氏の本を読むのは、はじめて(笑)。
エッセイなので気楽に買いました。
目次をひらいて、気に入った題のページをひらく。
「言葉の論議」「師弟のこと」「渡り鳥日記」
それに「正月の菓子包み」。
はい。これだけをパラパラ読み。
ちなみに、生島遼一氏は、
明治37年(1904)生まれ。
「正月の菓子包み」から引用。
はじまりは
「私は大阪の町の真ん中で生まれましたが、
そのころ市内の町家生活は、子ども心に何となく
陰気に感じられ、阪神間の郊外に住んでいた
叔父叔母の家ーーそこからは海が近く、
六甲の山並みも見えて、そういう家へ行って
遊び寝泊まりするのが何より楽しみでした。
大阪の実家は、父の勤めで、市内を転転としました
・・・・・・
父の仕事の関係で一家が京都へ移ったとき、
母はほっとしたような表情でした。
母もてくてく歩いて東山辺の寺など
好きな所を散歩したり、
年末の顔見世歌舞伎を見るなど、
大阪の生活のころより、顔もだいぶん
のんびりとした表情に変わりました。
戦争中に次男戦死、娘二人病死、
と続いた不幸にもよく耐え、
84歳まで長寿できたのも、
こうした環境の変化が気分を
よくしたのだろうと思います。・・・」
(p217~218)
そういえば、
梅棹忠夫・司馬遼太郎編の
「桑原武夫傳習録」(潮出版社・昭和56年)には、
序文を除いて、本文のはじまりが生島遼一氏でした。
そこからも引用。
「私は桑原と同じ年、大学入学も同年だが・・・
桑原は私に読書指導をしてくれた。
彼は後に教師になって
フランス文学科の学生を教えるときには
『あまり読むな。本ばかり読んでいると阿呆になる』
といつも言ってたらしいが、
学生当時は私に毎日アレを読め、
コレを読めと勧告し、おしつけていた。・・・・
桑原の本(自分のでも、他人のでも)の扱い方は
ひどく乱暴で、私に貸してくれたフランス書も
たいてい表紙がちぎれたり、ページが手垢や
蜜柑汁でよごれていた。旧師の落合先生が
『桑原に本をかすとひどいことしてくるよ』と
苦笑いしていられたことがある。・・・」(p15~16)
生島氏のエッセイにもどると、「師弟のこと」に、
「私がはっきりと師と呼べる人は、この
落合太郎さん一人である。」(p98)
とあるエッセイに、
不思議な言葉がありました。
「私自身、長年教師をしたから、師とは何か、
弟とは何かーーーと度々自問してきた。
冗談まじりに、若い友の一人に
『君たち、先生先生と気安く言っているが、
こわいものだぜ。本当の師なら、
それは悪い病気みたいなものかもしれん。
影響が年をとってから出てくる』
と言ったことがある。」(p99)
はい。『本当の師弟』とは無縁の私です(笑)。
けれども、ここでは、
60歳を過ぎ、京都へ帰った親鸞のことを、
思い浮かべてしまう場面かもしれません。
歎異抄の第二段に
『たとひ法然聖人にすかされまひらせて、
念仏して地獄におちたりとも、さらに
後悔すべからずそふろう。そのゆへは・・』
とあるのでした。
うん。ここで立ち止まると次へと
読みすすめなくなります。
さてっと、それはそうと、
桑原武夫氏が語りそうな、そんな箇所が、
「言葉の議論」と題するエッセイにありました。
最後にそこを引用。
「私は関西育ちで、
話すときは大体標準型の言葉を使っているが、
書くときには無意識に上方なまり的語法が
若干入るらしく、言葉に敏感な東京人の旧師から
よくそのことを注意された。
私は旧師の形のよくととのった日常語や文体に
いつも敬服していたし、
師の戒めを大体守ってきたが、時には
自分の方言的特徴を逆用して書く場合もある。
負けおしみいうようだが、
東京型標準語をけっして絶対視しておらぬ。
地方語的特色であっても、その人の
個性や感性と巧く結びつけば、
良い書き言葉になる、
なった実例もあると確信しているから。
このことは大切なのだ、
文章が月並調にならぬためにも。
・・・」(p55)
この後も、引用したくなるのだけど、
とりとめもなくなるのでこれで(笑)。