本は、まえがきと、あとがきと、目次とで、
読むのをヤメてしまうばかりの私です。
こん回も、ほんのはじまりを齧ります。
山折哲雄著「法然と親鸞」(中央公論新社・2011年)
その序のはじまりの箇所を引用。
「・・私は京都に居を移して、もう20年を超えている。
いまは縁あった洛中の下京に住みついている。・・
その下京で、私はときどき散歩を楽しんでいる。
あるときのことだった。住まいから5,6分ほど歩いて
西洞院(にしのとういん)通りを下り、
高辻通りの辻を曲がったとき、
そこに大きな石碑が立っているのに気がついた。
近づいてみると、『道元禅師御示寂之地』と
書かれているのが目に入ったのだ・・・・
道元は晩年病をえて、越前の雪深い永平寺を発って
生まれ故郷の京都の地にやってきた。
養生のため身を寄せたところが、
この下京だったのである。それが、いま私の住んでいる
ところからわずか5、6分の場所である。
だが、道元の病はついに癒えず、
ふたたび越前の山に帰ることはできなかった。
碑の前にたたずんでいるとき、
道元の無念の思いが伝わってくるようで、
立ち去りがたかったのである。
しばらく経ってからだった。
道元の碑のあたりから同じ西洞院通りを
南に歩いていって、松原通りにぶつかった。
これも家から7,8分ぐらいのところであるが、
その辻を東に入ったすぐのところに石碑が
立っているのが目についた。近づいてみると、
『親鸞聖人御入滅之地』
と刻まれていた。
私は、そのあまりの近さに驚いた。・・・
家にもどって『年譜』をくってみると、
親鸞が遠く離れた関東の地から京都に帰った
のが嘉禎元年(1235)のころとされている。
63歳になっている。
それにたいして道元が中国留学から帰国し、
伏見の地に興聖寺(こうしょうじ)を開いたのが
天福元年(1233)、34歳のときだった。
とすると、この時期、親鸞と道元は京都を中心に
生活の場を定めていたことになるだろう。
二人はもしかすると、
いま私が住んでいる下京で西洞院通りを歩き、
すれちがっていたかもしれない・・・・。」(p7~9)
はい。私の読書は、ここまで(笑)。
夢の中で、私が西洞院通りを散歩していると、
親鸞と道元と、そのどちらかと、私はすれ違う。
しかも、残念なことに私はそれに気づかない。
そんな夢を見るかもしれない(笑)。
それはそうと、
はじまりを引用したのですから、
本文の最後の頁からも引用することに。
「いま、京都の街に出て歩いていると、
ときとして法然の影が横切るときがある。
歩き疲れて、ふと辻に立つと、どこからともなく
親鸞のいる気配に包まれる。
不意に、中世のざわめきが身近に迫る。
乱の叫びがこだまし、耳を澄ますと
末法の声が地響きを立てている。
法然の
しみ入るような言葉が蘇るのが、そのときだ。
親鸞の
低くくぐもったつぶやきの声が耳朶を打つのが、
そういうときである。
法然の人生、80年
親鸞の生涯、90年
法然よ、いずこにいます。
親鸞よ、いずこに去りたもう。 」(p234)
はい。これが本文の最後の頁の全文でした。
そのあとに、法然と親鸞の関係年表がついておりました。
はい。わたしは、本の最初と、最後を開いただけ(笑)。
まるで、本人はちょっとした散歩をしてるような気分。