和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

仁和寺と方丈記・徒然草。

2020-02-04 | 京都
仁和寺(京都市右京区御室)といえば、
方丈記にも、徒然草にも登場するので、
行ったことはなくても、身近な感じがします。

ということで、
方丈記・徒然草の仁和寺について、
二冊の古典を並べてみることに。

まずは、方丈記。
仁和寺の隆暁法印(りゅうげうほふいん)。

「隆暁は、『方丈記』全体の中で、同時代人としては
唯一名前の明記された人物である」
(p114・浅見和彦「方丈記」ちくま学芸文庫)

その時代はというと、
1181年から大飢饉が続き、無数の死体が町に溢れます。
ここは原文を

「仁和寺に隆暁法印といふ人、
かくしつつ、数も知らず、死ぬる事をかなしみて、
その首(かうべ)の見ゆるごとに、
額(ひたい)に阿字(あじ)を書きて、
縁を結ばしむるわざをなんせられける。

人数を知らむとて、四、五両月をかぞえたりければ、
京のうち、一条よりは南、九条より北、
京極よりは西、朱雀よりは東の、道のほとりなる頭(かしら)、
すべて四万二千三百余りなんありける。

いはむや、その前後に死ぬるもの多く、
また、河原、白河、西の京、もろもろの辺地(へんぢ)など
を加へていはば、際限もあるべからず。
・・・・・・ 」

浅見和彦氏の解説には、比べながら、
嵯峨本『方丈記』の、同箇所の記載をしております。
そこを引用。

「 仁和寺に隆暁法印といふ人、
かくしつつかずしらず死ぬる事を悲みて、
聖を余多(あまた)かたらひつつ、
其死首の見ゆる毎に阿字を書きて、
縁に結ばしむるわざをなむせられける。」

そのあとに、長明の行動を指摘しておりました。

「安元の大火の折も、福原遷都の折も、
長明は事あるごとに現地へ赴き、その様子を
正確に書きとめてくる。今回もそれこそ
左京の全域を虱潰(しらみつぶ)しに数え回ったのであろう。
・・・・・長明の行動力は特記するに十分値しよう。」
(~p114)

はい。ここまでにして、つぎは徒然草。

小学館の「日本古典をよむ 14」(2007年)は
「方丈記・徒然草・歎異抄」の3冊がまとまった
入門書になっておりました。これも古本で購入。
写真もはいっていて、ゆったりした配分で
読みやすいと、今回手にしました。
この本の最後の解説から引用します。

「『徒然草』の作者兼好は、弘安六年(1283)頃、
朝廷に代々神祇官(じんぎかん)として仕えた
卜部(うらべ)家の分家に生まれた。」(p311)

「没後は定かではないが、少なくとも
観応三年(1352)70歳頃までは
生存が確かめられる。」

こうして、吉田兼好の年代がわかりました(笑)。
節分でお馴染みの吉田神社にかかわる記述もあります。

「江戸時代に入ると・・・・
『吉田兼好』の俗称がはじまったのは、このころである。
兼好に付された『吉田』姓は、兼好没後に卜部氏が
吉田神社に仕えて吉田姓を名乗ったことによるもので、
正式には兼好の姓ではない。
『徒然草』は江戸時代を通して武士や町人まで
幅広い層に受け入れられ、以降、日本を代表する
古典として知られるようになった。」(p313)

もどって、隆暁法印の時代から100年後に
兼好は生まれていたことになります。
兼好の時代の仁和寺の僧のことを
書きとめておいてくれておりました。

はい。ここはこの小学館の本から引用します。
第52段「仁和寺にある法師」と
第53段「是も仁和寺の法師」。

ちなみに、第52段は最後に
「少しのことにも、先達(せんだち)はあらまほしき事なり。」
とある有名な文。以前に、このブログでも
引用したことがあるような気がするので省略。

今回は、第53段を紹介。

「これも仁和寺の法師の話だが、
稚児が一人前の僧になろうとする、
その名残(なごり)だといって、
みんなで遊ぶことがあった。
そのとき一人の法師が酒に酔って
興にのりすぎた結果、そばにあった
足鼎(三つ足、耳二つの金属製器具)を
取って頭に・・・顔を差しこんで舞って出たところ、
一座の者がみな、このうえなくおもしろがった。

しばらく舞を舞ったあとで、
足鼎(あしかなえ)を引き抜こうとすると、
いっこうに抜けない。酒宴も興ざめになって、
どうしたものかと・・・あれこれして・・・
どうしようもなくて、三本足の鼎の角の上に
帷子(かたびら)をかぶせて、手を引き杖をつかせて、
京都にいる医師のもとへ連れて行った、その道々、
人が何であろうかとひどく怪しんで見た。

・・また仁和寺へ帰って、親しい者や老いた母などが、
枕もとに寄って泣き悲しむけれど・・・

そうこうしているうちに、ある者が言うには、
『たとい耳や鼻は切れてなくなっても、
命だけはどうして助からないことがあろうか。
このうえはただ、うんと力を入れて引っぱりなさい』
と言うので・・・引っぱったところ、
耳も鼻も欠けて穴があきはしたものの、
やっと鼎は抜けたのだった。
法師は、あぶない命を拾って、
長い間、患っていたということだ。」

はい。仁和寺といえば、
方丈記と徒然草が思い浮かびます。
江戸時代は、町人にも徒然草が読まれた
ということですから、仁和寺はひろく
庶民にも知られていたのでしょうね。
そんなことを、つい思います。
















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする