山崎正和著「室町記」のなかに、3頁ほどの
「小京都・豆京都の成立」という文がありました。
島根県津和野に伝わる鷺舞の歌が
引用されて、はじまります。
そのあとを引用。
「毎年7月、弥栄(やさか)神社の祭礼の行事として、
二羽の鷺が舞ひながら静かな山陰の町並を練り歩いて行く。
弥栄神社といふ名前からも推察されるように、
この祭の遠い先祖は京都八坂神社の祇園会である。
祇園祭は祭神ともども大内氏によってまづ山口へ移され、
そこから大内氏の重臣であった吉見氏によって津和野へ
もたらされた。京都の祇園祭は今では山鉾の渡御だけが
知られてゐるが、江戸時代まで鷺舞はこの祭に欠かせない
ハイライトであった。それが本家の京都でも山口でも
廃れたのちに、この山陰のひなびた町にひっそりと
古い姿を残したのである。」
(p284~285「山崎正和著作集4」)
このあとに、こうありました。
「いはば大内氏は『小京都』の建設をめざしたわけだが、
同じ趣旨の町造りが行なはれたのは山口ばかりではなかった。
一条家が造った土佐の中村や、朝倉氏が越前に開いた
一乗谷の城下町は有名であるが、そのほかにも建築や祭礼に
京都を写すことは全国的な流行であった。
津和野の鷺舞の場合のやうに、『小京都』がさらに写されて
孫にあたる『豆京都』を生むこともあった。
応仁の乱で武士たちは本来の京都を政治的に奪ひあふ一方、
それぞれの領国にその雛型を文化的に再現しようとした。
・・・・・」(p285)
林屋辰三郎氏は、こう指摘されておりました。
「・・京都文化は、分身を全国につくり、
単なる中央でない日本文化として成長したのである。
従って日本文化は、じっくりと
京都に研究の焦点を定めないかぎり、
完全に理解することが出来ないであろう。
日本文化の研究が京都から生れる所以である。」
(p11「京都文化の座標」人文書院・昭和60年)