もともと京都のお寺に興味はなかったので、
天龍寺といっても、竜安寺と同じ寺かもなあ、
と思っていたぐらいでした(笑)。
淡交社「古寺巡礼京都・④天龍寺」(昭和51年)は、
そんな私に、よき入門書となりました。
水上勉氏の10頁の文が、格好の水先案内書となっております。
はじまりは
「ぼくは14歳から19歳まで、
天龍寺派別格地等持院で小僧をしていたので、
本山天龍寺へゆく用事があってよく出かけた。・・・
本山行事はもちろんのことだったが、塔頭でも、何やかや
人寄せ事があって法類小僧が応援に出る慣習があった。
だから、いま本山の風景一つを思いうかべても少年時に
かさなって格別の思いである。・・・・」
こうして夢窓国師の『夢中問答』も引用されておりました。
「『白楽天小池をほりて其の辺りに竹をうえて愛せられき。
其の語に云く、竹は是れ心、虚ければ我友とす。
水は能く性浄ければ吾が師とすと云々。
世間に山水を好み玉ふ人、同じくは楽天の意のごとくならば、
実に是れ俗塵に混ぜざる人なるべし。・・・・
これをば世間のやさしき人と申しぬべし。
たとひかやうなりとも若し道心なくば亦是輪廻の基なり。
或は此の山水に対してねぶりをさまし、つれづれをなぐさめて、
道行のたすけとする人あり。これはつねざまの人の
山水を愛する意趣には同じからず、まことに貴しと申しぬべし、
しかれども、山水と道行と差別せる故に、真実の道人とは申すべからず。
・・・・・・・・・・・
然らば則ち山水を好むは定て悪事ともいふべからず、
定て善事とも申しがたし、山水には得失なし。得失は人の心にあり』
・・・・国師の山水観はこの抜書で足りよう。
熟読して身を洗われたが、さかしらに、庭に向かって
物をいうことは控えねばならぬ。・・・・」
はい。このあとに、
『天龍寺は、夢窓国師が、足利尊氏・直義の兄弟を説得して
建てられた』ことのいわれを文を引用しながら説明されておりました。
ですが、ここはカットして、水上勉氏の文の最後を引用してみます。
ちなみに、この文の題は「天龍寺幻想」となっておりました。
「ぼくは子供のころ、等持院の庭で芙蓉の池畔に散る落葉を
掃いていて一服した時、無数といってもいい石が、気ままに置いて
あるとみえたものが、じつはそうではなくて石はそれぞれ場所を得て
坐っていて、それぞれのありようが摩訶不思議に思えた。・・・・・
物の本によると、京には阿弥という庭師のむれがいて、
卑しい人々だったともいう。国師のさしずで、人々が汗だくで、
石を置き、置きかえたりして、長い日数をかけて、完成されたのに相違ない。
そう思うと、柔和な頂相どおりの国師が、本堂裏にすわって、
褌一つでもっこをかつぐ阿弥たちを指図していらしゃる姿がうかぶ。
等持院だけではないのだった。この思いは天龍寺の規模壮大な
曹源池畔に立ってもやはりうかぶのだ。・・・・・
思うのは、国師が尻はし折りしてあれこれ阿弥を使い走りさせながら
自ら池泉を歩きまわられる姿である。・・・・」
え~と。だいぶ端折りましたが、
水上勉氏の文の最後はこうなっておりました。
「この庭を、夢窓さんの鎮魂の庭とみるのも、
草木と共に腐ちんとされた気概の庭とみるのも、
それは現代人の自由である。ぼくはいずれにしても
大勢の人が死んだ建武・暦応の昔の騒音を思い、
上層階級の人々の魂の痛みを、いつも
この庭の奥ふかくから耳をすませて聞くことにしている。」
うん。まるっきり知らなかった天龍寺なのですが、
はじめての案内を、水上勉氏の文章で読めてよかった。