高田敏子著「月曜日の詩集」(河出書房新社・昭和37年)をぱらぱらと
めくっていると、写真と詩がしっくりしているのが感じられます。
道を二人して歩いている後ろ姿の写真があって、
そこに付けれらた詩は「春の道」でした。
美しい娘さんが
ほほえんでゆきすぎる
たのもしげな学生さんが
帽子をとってあいさつする
『まあ あなたはどなた?』
そのたびにとまどう私
かつてこの道で
タコをあげ
羽根つきをして
遊んでいたあなたたち
その幼顔を思いだすまでに
ながい時間がかかるのです
さて、男性が詩をかいたなら、どんな詩になるのか?
なんて思っていたら、丸山薫の詩『学校遠望』が
思い浮かびました。
学校を卒へて 歩いてきた十幾年
首(かうべ)をめぐらせば学校は思ひ出のはるかに
小さくメダルの浮彫のやうにかがやいてゐる
そこに教室の棟々が瓦をつらねてゐる
ポプラは風に裏反つて揺れてゐる
先生はなにごとかを話してをられ
若い顔達がいちやうにそれに聴入つてゐる
とある窓辺で誰かが他所(よそ)見をして
あのときの僕のやうに呆然(ぼんやり)こちらを眺めてゐる
彼の瞳に 僕のゐる所は映らないだろうか?
ああ 僕からはこんなにはつきり見えるのに
うん。高田敏子さんの詩もいいのだけれど、
なんとなく、ちょくちょくそんなことを思ったりするのだけれど、
私には、丸山薫の詩が面白い。
こちらは、僕が僕を見ている。
『こんなにはっきり見える』という、僕の年齢とは
いったい何歳くらいからなのだろう?
うん。高田敏子の詩『花火』も引用することに
夏休みがきても
もう どこへゆくあてもない
娘や息子は
友だちと海や山へゆくのを
たのしむ年ごろになった
湯上がりの散歩もひとり・・・・
いけがきの道をゆくと
おもざしのよく似た兄妹が
花火をかこんでいる
かたわらに 母親らしいひとが
マッチをもってほほえんでいる
かつての私と子どもたちのように・・・・
この写真と詩との取り合わせが素敵でした。
かたや『学校』。こちらは『私と子どもたち』。