法然の言葉に
『凡夫の心は、物にしたがいてうつりやすし、
たとえば猿猴(えんこう)の枝につたふがごとし。
まことに散乱して、動じやすく、一心にしづまりがたし』
(p357「増谷文雄著作集⑨」)
これは、「法然と親鸞」と題した文にあるのですが、
ここに、サルが出てくる。
そういえば、長谷川等伯や海北友松の襖絵に
手長猿が描かれている場面があるのを思い浮かべます。
どちらも、サルが木の枝にぶら下がっている図です。
うん。『まことに散乱し、動じやすく、一心にしづまりがたし』
の象徴としての猿が描かれているのなら、
これまた、襖絵の見方がかわってきます。
そういえば、
竹山道雄著「京都の一級品」(新潮社・昭和40年)に
長谷川等伯の襖絵を見ている場面が登場するのでした。
「ここにすわると、思わず息を呑む。・・・・
芸術家の精神はここに老松と猿の姿を借りてあらわれ、
われわれを日常には思いもかけない次元へと誘う。」
(p202)
そのあとに、こんな箇所があるのでした。
「この絵は、静中に動あり動中に静ありというふうで、
猿の一瞬の動作と・・・永遠を暗示するものとが対比している。
・・・何も描いてない部分は、
無限に広くしかも充実した空間であるが・・・それは・・
むしろ見る者が喚起されて自分の精神をもって満たす場所である。
一匹の猿と一本の枝によって、魔術が行われている。」
(p204)
はい。法然の言葉から、襖絵の猿へ、
移り木(移り気)な連想の引用でした。