和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

いうことなかれ。

2020-08-22 | 正法眼蔵
道元の正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を読んでみたい。
そう思って本は買えど、未読のままになっておりました。

それはそうと、講談社学術文庫に
大谷哲夫著「道元『永平広録・上堂』選」がありました。
そのはじまりは
「わが国で初めての上堂(じょうどう)が行われたのは、
嘉禎2年(1236)陰暦10月15日、道元が京都深草に建てた
観音導利興聖宝林禅寺、通称興聖寺においてであった。
・・・・・
ところで、この上堂というのは、住職が法堂の上から
修行僧たちに法を説く禅林特有の説法形式で、多くの
禅者の『語録』はこの上堂語を収録している。・・・・」

この文庫の目次をパラパラとめくっていると、
「天童和尚忌の上堂」というのがある。
「天童和尚は道元の本師、天童如浄(にょじょう)のこと」
なので、気になってそこをひらいてみる。

現代語訳を以下に引用。
「天童和尚忌、寛元4年(1246)7月17日の上堂に、
道元は次のように偈頌(げじゅ)をもって示した。

 私が宋に留学して先師如浄のもとで仏道を学んだのは、
あたかも『邯鄲(かんたん)の歩』ということわざのように、
地方から大都市の邯鄲に出て、やがて都会風の歩き方をするうちに
田舎風の歩き方を忘れるのに似ている。

私は、如浄のもとで、日本で学んだ仏法を忘れ、
水汲みや柴運びの日常茶飯の中に真実の仏法を見いだした。

それは、如浄が、修行者である私にたいして、
仏法とはこういうものだ、と欺いたのだなどと言ってはならない。
師の天童和尚こそが、私道元に欺(あざむ)かれて
真の仏法を教え示してくれたのである。」

原文は

「入唐学歩邯鄲に似たり
運水にいくばくか労し柴もまたはこぶ
いうことなかれ先師弟子を欺むく、と
天童かえって道元に欺かる。」

ここに、
「日本で学んだ仏法を忘れ、
水汲みや柴運びの日常茶飯の中に
真実の仏法を見いだした。」

うん。学者肌で中国文献に通じ、
中国会話もペラペラだった道元が
水汲みや柴運びをしているのがわかります。

嘉禎3年(1237)の春、興聖寺において記された
『典座教訓(てんぞきょうくん)』があります。
ちなみに、典座とは禅院の台所方を務める者のことです。

ここは、増谷文雄氏の文から引用。

「船は商船であった。3月の下旬に博多を出て、
4月のはじめには無事に慶元府についた。・・・・
船は積んできた商品を売りさばくために、なおしばらく
碇泊していた。その船に、5月のはじめのこと、
ひとりの僧が椎茸を買いにやってきた。それは道元にとっては、
はじめて見るかの地の僧であったかもしれない。彼はよろこんで、
かの僧を自室に招じいれ、お茶をふるまって話をした。
聞いてみると、かの僧は、そこから程遠からぬ阿育王山で
典座の職にあるということであった。
『わたしは西蜀のものであるが、郷里を出からもう40年にもなる。
ことしは61歳ですよ。その間いろいろの禅林を訪れて修行したが、
いっこうに大したこともなかった。しかるに、去年の夏安居(げあんご)
あけに本寺の典座をうけたまわった。ちょうど明日は5月5日なんだが、
なんのごちそうもない。麺汁なりとと思うけれども、椎茸がない。
それで、わざわざやって来たのは、椎茸をもとめて、
雲水どもにごちそうをしたいからですよ』・・・」

このあとに、道元が御馳走するからとひきとめようとすると、
老典座は、どうしてもわたしが司(つかさど)らねばならぬという。

「そこで若い道元は、ずばりと遠慮のない問いをこころみる。
いや、それは詰問といったほうがよいであろう。・・・
あなたはもうお年である。それなのに、なぜ坐禅弁道にも専念せず、
古人の語録を読むこともせず、わずらわしい食事係などをひたすら
に努めて、なんのよいことがあるか、というのである。
ところが、それを聞いて、かの老いたる典座は、呵々大笑して
・・・・『外国からきたお若いかた』と呼びかけて、
あなたはまだ仏教のこともご存じないとみえる、といったのである。
・・・道元はもう必死にならなければならなかった。
『如何にあらんかこれ文字、如何にあらんかこれ弁道』と、
とりすがるようにして問うた。だが、そのとき、
かの老典座がいったことばは、
『もし問処を蹉過(さか)せずんば、豈その人にあらざらんや』
・・・・蹉とはつまずくということば。そこでじっくりと取り組んで、
つまずいてみるのもおもしろい。それではじめて物になるのだ。
そんな意味のかの老典座のことばであったと思われる。・・・」
(p82~85「増谷文雄著作集⑪」角川書店)

増谷文雄著作集⑨からの、引用。典座について。

「『・・・・・禅苑清規にいわく、衆僧を供養す、
ゆえに典座ありと。いにしえより道心の師僧、
発心の高きをあてきたるの職なり』

世の常識においては、賄方(まかないかた)などという食事の
ことをつかさどるものの地位は、けっしてたかいものではない。
しかるに、禅宗においては、それは六知事の一つとして、
きわめておもい役目である。そこには、中国人の仏教の把握のしかたの、
本質の一端があらわれており、また道元がかの地で学びえたいわゆる
『仏祖正伝』の仏法のかなめが存するのである。
 ・・・・・・
 そのなかにも流派を生じた。そのあるものは、
直観に重点をおいて、道場における坐禅修行に全力を集中する
傾向をしめした。臨済のながれがそれである。
また、あるものは、生活実践に重きをおいて、行住坐臥における
綿密な作法をもってゆかんとする。曹洞のながれがそれである。
そして、道元がこの国にもたらし、この民族のなかに
移し植えたものは、その後者であった。」(p290~292)


はい。正法眼蔵を読めなかった。
こうして、つまづいた場所からなら
正法眼蔵に、ゆっくりと取り組める気がします。
はい。発想だおれにならないよう、注意します。



コメント
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