阿川佐和子さんの高山寺エッセイに、
梅原猛著「京都発見」⑦(新潮社・2004年)からの
引用がありました。
うん。この本⑦は、ちょうど古本でバラで買ってあった。
ということで、梅原さんによる高山寺の文を読むことに、
15頁ほどで、ところどころ印象深い写真も載ってました。
はじまりは
「京都から丹波へ抜ける周山街道を行き、高雄の神護寺を
すこし過ぎた所に栂尾(とがのお)の高山寺がある。
高山寺は二つのことで有名である。
一つは明恵上人がいたこと、もう一つは
『鳥獣戯画』を所蔵していることである。
高山寺は明恵が長く滞在した所であり、
明恵に対する上下の信仰があつく、
かなり栄えた寺であった。しかし、
当時の面影をそのまま伝えている建物は、
場所を移して建てられた石水院のみである。」
うん。15頁に、印象的な写真と文章がつまっているのですが、
ここでは、はじまりだけを引用しておわることに(笑)。
「・・・明恵は神護寺の文覚の弟子である。
文覚は神護寺の再興を念願し後白河法皇に寄進を強要し、
法皇の怒りに触れて伊豆に流罪になる。そして源頼朝の
平家追討の旗揚げを扇動し、頼朝が天下を取るや
平重盛の孫六代をかくまい、後鳥羽上皇の意向に反対して
守貞親王すなわちのちの後高倉院を擁立しようとして二度も流罪になる。
こういう所業を繰り返す文覚は怪僧といわれても仕方がなかろう。
一方、明恵は厳しく戒律を守り、あまねく衆生に慈悲を及ぼす
清僧中の清僧といってよかろう。どうしてこの怪僧の弟子に
このような清僧が出たのであろうか。
この師弟はどこかが似ている。師弟に共通なのは
道を求める狂気の熱情といってよいかもしれない。
文覚の行状を考えれば、彼が狂気の人であることは明白である。
しかし形は違うが、明恵も狂気の人といってよい。
世俗的な楽しみをむさぼる世間の僧を嘆き悲しみ、
欲望を断ち切り仏道への志を確立するために・・・・」
「しかし、いずれも狂気の人といってよいこの師弟は
仏教についての考えがかなり違う。明恵は奈良の東大寺で
華厳学を学び華厳僧になった。・・・・
師の文覚が復興しようとした真言密教はまさに玉体安穏、
鎮護国家を祈る仏教として栄えてきた。文覚はこの真言密教が
衰え、空海の故地である神護寺が荒廃しているのを悲しんで、朝廷や
幕府の加護を得て、七堂伽藍の完備した神護寺を復興したのである。
しかし、明恵はこのような師の仏教のあり方に疑問を持った。
立派な寺院を建て生活が豊かになると、僧は必ず堕落する。
僧たる者は貧乏寺で、かつかつに生きて、
もっぱら道を求めるべきであると明恵はいう。」
(p72~76)
はい。ここまで。