世界文化社。グラフィック版「徒然草・方丈記」(1976年)は
函入りでしっかりした本。
古典としての、方丈記・徒然草は有難い。
この本は表紙見返しの、きき紙と遊びの両面に、
方丈記の長明の自筆本といわれている大福光寺本の
はじまりが写真でプリントされており、うれしくなります。
カタカナ漢字交りですが、読もうとはちっとも考えず、
そのまま、ボーッとして鑑賞していたくなるのでした。
見開き両ページで44センチ×高さ28センチですから、
方丈記の門前に立ったような、そんな気分です(笑)。
さて次の口絵は、前田青邨の「つれつれ草」。・・・
そうして、徒然草絵巻「世の人の心まどはす事」海北友雪筆
その次は、「御輿振り」前田青邨筆。
「御輿振り」は、青邨の絵巻の一部で、橋の下から
上を通ってゆく御輿を見ている庶民の姿を描いた箇所でした。
うん。その前田青邨の絵巻きが、古い絵巻の中にまじって
載せられているせいか、新鮮で現代的な溌溂さを感じさせ、
印象的です。まるで絵巻の人物が現代語で喋っているようです。
加藤一雄著「雪月花の近代」(京都新聞社1992年)に、
「前田青邨展を見て」と題する3頁ほどの文があります。
そこから引用。
「・・・生々発々の情景を描いて、しかも描く
その墨線はゆるやかに静かであって、決して走ってはいない。
走りつつ歴史というものは語ることができないからである。
色彩はかなり淡く浅く、その淡さを幾重にも積みかさねて
古代中世のこまやかな味を出している。人間の歴史も自然の存在も
また淡く浅いものが積もり積もって成ったものだと、ここに氏は
描き出してみせてくれている。そして、われわれ平均的な生活人も
この堆積の描写には十分納得がいくのである。・・・・・
これだけの抑制と制御を加えながら、それにしても、
この作者の精神の何と活発なことなのだろう。
活発な精神にありがちの誇張と過剰とは
すぐ隣まで来ているのであるが、よく制御がきいて
危い一歩手前で立ち止まっている。・・・・」(p295~296)
うん。しろうとの私が京都の絵を見て感じる
漠然とした「淡く浅い」ことによる物足りなさ、動作の一瞬が
さりげなさ過ぎるのじゃないか思いてしまう感じ、というのは、
加藤一雄氏によれば
「活発な精神にありがちの誇張と過剰とは
すぐ隣まで来ているのであるが、よく抑制がきいて
危い一歩手前で立ち止まっている。」
と読みかえることができるのでした。
うん。だいぶ誇張と過剰とに毒されているかもしれないのだ、
と私の立ち位置を教えてくれているようです。
そうか、こうして京都画壇の絵を観賞してゆけばいいのだと
細やかな絵画への水先案内人に出合ったことのよろこび。
おっと忘れるところでした。
この短文「前田青邨展を見て」のはじまりも
最後に引用しておきます。
「『青邨展』をみてその印象をひと言でいうと、
それは歴史の面白さに堪能したということである。
わが国の古代中世人の生き方がありありと描き出されているし、
彼らの笑い声や泣き声までがそこに聞こえてくるような気がする。
そして、ついに大きく静かな自然が深々と彼らの上に覆いかぶさって
くるという鎮魂の譜までがまた余すところなく描き出されている。
絵というものはひっきょう絵空事ではあるものの、絵空事である故に、
その描き方、語り口によっては見事な別世界にわれわれを誘ってゆく
力を持っているものである。その力を使う鍵ともいうべきものを
青邨氏は十分にもっておられるらしい。・・・・・」(p294)