和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

久米の仙人の。

2020-08-06 | 古典
世界文化社の「日本の古典⑥グラフィック版徒然草方丈記」(1976)。
はい。近くに置いてひらきます。
このグラフィック版は各所の絵が掲載されていて
そのなかの前田青邨筆の「つれつれ草」と
「徒然草絵巻」とが気になっております。
本の最初の6~7ページには、徒然草絵巻より
「第8段 女の白い脛を見て通力を失った久米の仙人」が載っておりました。
はい。12ページに島尾敏雄氏のその訳がある。

「世の人を惑わすもので、色慾に及ぶものはない。
人の心は愚かなものだ。・・・・・・・・・・
久米の仙人が、物を洗っている女の脛(はぎ)の白いのを見て
神通力を失ったそうだが、まことに手足や肌が清らかに肉づきよく
つやが出ているのは、ほかの色ではないのだから、無理もないことだ。」

ちなみに、「久米の仙人の・・」を岩波文庫「徒然草」の注で
引用すると

「大和の国、吉野郡の竜門寺にこもって仙法の修行をし、
飛行の術を修得したという。
『後ニ、久米モ既ニ仙ニ成リテ、空ニ昇リテ飛ビテ渡ル間、
吉野河ノ辺ニ、若キ女、衣ヲ洗ヒテ立テリ。
衣ヲ洗フトテ、女ノ、脛(はぎ)マデ掻キ揚ゲタルニ、
脛ノ白カリケルヲ見テ、
久米、心穢(けが)レテ、其ノ女ノ前ニ落チヌ」
(「今昔物語集」巻第11の「久米ノ仙人始メテ久米寺ヲ造レル語第24」)

はい。ちなみに、時代考証をいたしましょう(笑)。
1932年(昭和7年)に白木屋の火事があってから、
女性もズロースを着用するようになるのでした。
それまでは着物の下は腰巻でした。

それはそうと、「徒然草絵巻」には海北友雪筆とあります。
海北友雪は、海北友松の息子です。

おさらい。竹山道雄著「京都の一級品」(新潮社昭和40年)に
海北友松を取り上げた箇所がありました。そこから

「友松が41歳のとき、織田信長が浅井長政を小谷城に滅ぼした。
このときに、友松の父海北善右衛門綱親も自刃したが、友松は
東福寺にいたので難をまぬかれた。このような戦乱の世に生きて、
友松は武士であることを願い、武将に親しくして、自分の芸術には
それほど重きをおかなかった。子の友雪が父の肖像を描き、その賛に
『敢てその芸を専らにすることを欲せず、
志は武道に在り、努めて弓馬を学んだ』とあるそうである。
親友の斎藤利三が、山崎の合戦で捕らえられて粟田口で磔に
されたときには、友松は槍をふるって衛兵を追って、
利三の屍をうばって真如堂に葬った。
こういう人の絵にみなぎっているの命がけの気合は、
このころの時代精神だった。・・・・」(p140~141)

ここに出てくる斎藤利三の娘が、斎藤福。
斎藤福はのちの三代将軍徳川家光の乳母・春日局にあたります。

春日局(斎藤福)は、友松の息子・友雪を幕府御用絵師に取り立てる。

はい。以上は京都国立博物館開館120周年記念「海北友松」の
図録にあった「人物相関図・略記」(p46~47)からの引用。

うん。海北友雪筆の「徒然草絵巻」の全部を見てみたくなるのですが、
ネット検索すると4000円以上しそうなので、ここまで、
世界文化社のグラフィック版「徒然草方丈記」に載せられた
「徒然草絵巻」のいくつかを眺めて満足することにします(笑)。

コメント
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