和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

つかれた私達の目を。

2020-08-24 | 京都
「新版 私の古寺巡礼・京都 (下)」(淡交社)。
これが古本で届く。207円+送料300円=507円。
出品者は「日々感謝」とあります。

あれ。井上章一氏が書いており読んでみる。
「法界寺」をとりあげているのですが、
脱線したように語る『庭』の考察が印象に残る。
ので、その箇所を引用。

「けっきょく、京都の寺へやってくる観光客は、
美術や建築をもとめていないのだ。・・それよりは、
美しい庭にいやされたくて、でかけているのだと思う。

じじつ、京都で観光にわく寺々は、
たいてい庭園を売り物にしている。
庭の樹々や石、そして池がおりなすたくみな空間演出で、
拝観者をあつめている。ふだんの日常生活をわすれ、
いっときなりとも庭園美に酔いしれる。たいていの人が、
京都の寺にもとめているのは、けっきょくそれだろう。
  ・・・・・・・・
その意味で、多くの観光寺院は、庭園を舞台とする
テーマパークじみたものになっている。

余談だが、そういう寺院経営でもうかっている寺を、
京都では肉の山、肉山(にくさん)とよぶ。
身入りのないところは、肉がなくて骨ばかり、
それで骨山(こつざん)と称される。・・・・・・


どうして、あそこまで庭にこだわるのか。
仏教のどこに、ああいう美しさをもとめる、
宗教的な必然性があるのか。そのことを、
いぶかしく感じるのは、私だけでもないだろう。
仮説じみたことを、あえて書く。

京都の美しい庭は、その多くが室町時代以後に、
かたちづくられた。そして、戦国時代末期から、
どんどん洗練されていくようになる。

おそらく、それらは
室町将軍家や有力大名のありかたとも、つうじあっていただろう。
殺害をつとめとする。明日は、戦場で死ぬかもしれない。
そんな武人たちを、もてなしなぐさめる。美しい庭の数々は、
そういうもとめにおうじて、いとなまれたのだろう。

仏教が、庭の美をはぐくんだのではない。
戦士たちの殺伐とした心が、美しい庭を欲望した。
そうしてできた庭園の管理に、あとから僧侶たちが
なったのだと思う。そして、その同じものが、
現代文明につかれた私達の目を、今いやしているのである。」
(p184~186)


はい。あらためて、
上田篤著「庭と日本人」(新潮新書・2008年)を
本棚から取り出してみたくなる。それにしても、
殺伐とした心が、京都の庭を欲しているのだ。
そう、繰り返して、つぶやいてみる。

追記。
さてっと、ここまで書いたのを読み直していたら、
「もうひとつの『風塵抄』・司馬遼太郎・福島靖夫往復手紙」
(中央公論新社)の箇所が思い浮かぶのでした。

1994(平成6)年3月24日の司馬さんからの手紙。

「それにしても朝鮮半島人の誇り高さは、
人類のなかでもめずらしいのではないでしょうか。
『朝鮮人(韓国人)は、なぜああも誇り高いのでしょう』
と、井上靖氏にきいたことがあります。
『風濤』のなかの朝鮮漢文の激越さについての話題のときです。
『誇るべき何物ももたないために誇り高いのでしょう』
おだやかなはずの井上靖氏にしては、
息をのむようなきついことばでした。

われわれはニューヨークを歩いていても、パリにいても、
日本文化があるからごく自然にふるまうことができます。
もし世阿弥ももたず、光悦、光琳をもたず、西鶴をもたず、
桂離宮をもたず、姫路城をもたず、源氏物語をもたず
法隆寺をもたず幕藩体制史をもたなかったとしたら、
われわれはオチオチ世界を歩けないでしょう。・・・

それにしても、韓国・朝鮮史の空虚さは、悲惨ですね、
六百年、朱子学の一価値しかなかったための空虚だったと思います。
個々にはすぐれた人が多いのに、いまでも、社会的な発言となると、
反日一本ヤリです。朱子学一価値時代とかわりがないように思います。
・・・・・」(p277~278)


コメント
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