和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ああこれか。

2020-08-17 | 古典
増谷文雄氏の「道元を見つめて」。
そこに一読忘れられない箇所があるのでした。

「・・・わたしは浄土宗の寺の生まれである。
それにもかかわらず、今日にいたるもなお
一人前の僧侶の資格をとっておらないのであるが、
そのもとを訊(ただ)せば、若いころ
いささか仏教に対して疑問を抱いていたからである。
わたしの眼前にあったものは、いろいろの矛盾を含んだ
寺院生活であった。わたしには、それに妨げられてか、
仏教の本質がどうしても掴めなかった。そのわたしにとって、
仏教とは『ああこれか』と、いささかでも理解できたとするならば、
そのことを明かしてくれたものは・・『典座教訓』であると思っている。

道元禅師が『典座教訓』を書いたのは、
嘉禎3年(1237)の春のことである。とすると、
その文中の老典座との出会い(貞応2年、1223)を去ること
足かけ15年のころのことである。・・・・・

それは道元禅師を乗せた船が慶元府(けいげんふ)に着いて、
その積み荷を売りさばくために、まだそのまま船泊まりしている
時のことであった。阿育王山(あいくおうさん)から椎茸を買いに
きたという老いたる典座をとらえて、道元禅師は会話を始めた。
 ・・・・・
典座(てんぞ)とは禅院の台所方を務める者のいいである。
道元禅師には、その典座がいい年をして、そんな仕事に
一処懸命であるのが、どうも納得できなかった。
なぜもっと坐禅をしたり、語録を読んだりしないのか。
それが若い道元禅師の詰問であった。すると対手は、
呵々(かか)大笑していった。
  ・・・・・・
外国のお若いのは、まだ仏教とは何か、お解りになっていない
ようですねということであった。その一句を、わたしもまた
忘れることができない。その一句を初めて読んだ時には、
わたしは、あたかもわが腹中を指さして語られているような
思いをしたのである。・・・・・

  ・・・・・・・・・
あの『典座教訓』の一節を読んでいると、
わたしもまたその傍らにあって、その二人の問答を
じかに聞いているような思いがする。それほど
その一節は生々と記されている。それを書いたのは、
その時からすでに15年も経ってからのことであるが、
道元禅師の心のなかには、それがいつまでも新鮮な
かたちで生きていたからにちがいあるまい。

そして、わたしもまた、その一節に接することによって、
わたし自身の仏教の本質に関する課題はようやく結晶する機会を
得たと思っているのである。それまでのわたしは、なお、いったい
仏教などを研究してどうするつもりか、どこかあやふやな気持ちも
ないではなかった。それが、この『典座教訓』との出会いによって、
どうやら、仏教の研究に専注する自分の学問の方向がかたまって
きたようである。・・・・」

うん。還暦を過ぎるようになると、出不精の私でも、
親戚の葬儀や法事に呼ばれる機会があったりします。
そんな時に、檀家の減少やら、坊さんの跡継ぎの問題やらが、
語られたり、じかに肌で感じたりできるのでした。

増谷文雄氏の文を読めば、そうした現実の世界とは別の、
仏教世界の門前に、たたずんでいるような気になります。

コメント
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