講談社「水墨画の巨匠④友松」(1994年)。
海北友松の絵をパラパラとひらいていたのですが、
ここに執筆されている杉本苑子氏の文を
今日初めて読んでみる。杉本苑子さんの文を
いままで一度も読んだことがない。
それで敬遠してたのかもわかりません。
けれども、読めてよかった、海北友松の縁ですね(笑)。
いろいろと教えられることばかりで、
前に引用した箇所など訂正がいるのですが、
ちょっと、まどろっこしいのでカット。
60歳をすぎてからの海北友松を語った箇所を
ここに、引用することに。
「兵火にかかって衰微していたこの寺の再建に・・・・
建仁寺再建のプロジェクトチームにメンバーとして加え・・・
友松筆の襖絵は52面にものぼる。時間の都合で、半分ほどしか
拝見できなかったけれど、絵の巧拙や好き嫌いの感情を超えて、
私を圧倒しつづけたのは作品の大きさであった。
画境や筆力の丈を言うのではない。文字通り寸法の大きさに
息を呑んだのだ。空間を仕切り、演出する襖は、
開け閉めに従って動き、静止する。
敷居から鴨居までの面積を縦に埋め、
部屋の四面を横に囲むのだから、一枚一枚はもとより、
ひと部屋全体の占有量はとてつもなく広くなるし、
動と静のもたらす視覚からの効果も、
グローバルに見ながら描かなければならない。
この絵画群の制作に当ったとき、友松は67歳だったという。
私(杉本苑子)はいま68歳である。・・・・・
67歳にして建仁寺本坊の巨大空間を、雲を巻く双竜で、
縹渺たる山水で、緊密精緻な人物たちで、生気溌溂たる孔雀で、
事もなげに埋めつくしてのけた友松のエネルギーに、たじたじしたのだ。
・・・私は若者を羨んだことはないが、友松の若さは切実に羨ましかった。
でも、博物館(京都国立博物館)を出てから気づいた。
六十代の友松は、しんじつ若かったのだ。41歳で彼は還俗し、
絵の勉強をはじめて、60歳ごろから一本立ちした。
60を半ば過ぎたあたりで本格的に世に認められ出したのである。
友松みずからは『六十七歳など駆け出しの若造』と思っていたに
ちがいないし、じじつデビューから7年では、まだ画歴は浅い。
・・・・・いかに大器晩成型とはいえ、なんと友松は83年の生涯の、
最晩年に近づいたころあのダイナミックな『花卉図屏風』を描いたのだ。
おどろくべき創作意欲、そして旺盛な生命力・・・・。
まさしく世阿弥の言う『老い木の花』である。・・・・」
はい。読めてよかった(笑)。